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【news】「冗談で立候補したら選ばれた」、英国教会の次期トップが告白
2013-02-03 Sun 00:51
「冗談で立候補したら選ばれた」、英国教会の次期トップが告白
(2013年02月02日 10:39 発信地:ロンドン/英国)

【2月2日 AFP】冗談のつもりで立候補したら、英国国教会(Church of England)の最高位職、カンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)に選ばれてしまった――。昨年12月に退任したローワン・ウィリアムズ(Rowan Williams)大主教の後任に決まった英ダラム(Durham)のジャスティン・ウェルビー(Justin Welby)主教(56)が、4日の任命式を前にこんな裏話を披露した。

 イングランド中部ノッティンガム(Nottingham)近郊のトレントビンヤード(Trent Vineyard)教会で1月27日に行われたインタビューでウェルビー主教は、自分のことを「ごくありふれた普通のキリスト教徒に過ぎない」と評価。ウィリアムズ氏退任に伴う次期大主教の選考に応募するよう推挙されたときも、主教になってまだ7か月の自分が立候補するなど「ばかげている」と思ったという。

 世界に信徒8000万人を抱える英国教会の精神的主柱であるカンタベリー大主教の候補者は5人。ウェルビー主教は応募したときについて、次のように語った。

「立候補の意思表明書には、もし大主教に任命されたらあれをやります、これもやりますと書き連ねました。そして一番最後に、こう書いたんです。『私は、この文章を楽しみながら書いています。選考委員の皆さんにも楽しく読んでいただけることを願っています。でも、まあ正直に言うと、これは冗談です。なぜなら、主教になってわずか7か月しかたっていない人間をカンタベリー大主教に任命するなど、全くもってばかげたことだというのが自明だからです。どうか正しい選択をしてくださるよう、祈っております』」

 トレントビンヤード教会のウェブサイトに掲載されたインタビューの中でウェルビー主教は、「私は大主教として、多くの人々をがっかりさせてしまうでしょう。英国国教会というのは非常に人間的なものなんです。そして私も、ごくごく普通のキリスト教徒にすぎません」と述べている。

 ウェルビー主教は、ケンブリッジ大学(Cambridge University)を卒業後、石油会社に11年勤務し役員も務めた経歴の持ち主。1月30日、カンタベリー大主教の公邸であるロンドン(London)のランベス宮殿(Lambeth Palace)に居を移しており、2月4日にセントポール寺院(St Pauls Cathedral)で法的な大主教任命を受ける。第105代カンタベリー大主教の就任式典は、3月21日に英南東部にあるカンタベリー大聖堂で行われる。(c)AFP






リスト教は、その長い歴史の中で様々な宗派や教派に分かれてきたんだ。一口にキリスト教と言っても、その中には様々な要素が含まれている。

今回のニュースに登場するのは、キリスト教の中でもプロテスタントに分類される宗派で、特にこれは「英国国教会」と呼ばれている宗派なんだよ。その名のとおり、イギリスで多く信仰されているんだ。

昔、イギリスにはヘンリー8世という王様がいた。そのころのイギリスは、多くの国民がカトリック信者だったんだ。王様は王妃と離婚して別の女性と結婚したかったんだけれど、カトリックでは離婚を一切認めない。そこで、王様はローマと縁を切り、国王を頂点とする独自の教会を作ってしまった。それが、今に続く英国国教会のルーツになったんだよ。王様も、ずいぶん思い切ったことをしたよね。

ローマカトリックとプロテスタントの中間とも言える教派で、場合によってはプロテスタントに分類されないこともある。教会の政治はローマカトリックと同じく監督制だけれど、聖職者の結婚は認められてる。記事にもあるように、イギリスのカンタベリー大主教と呼ばれる人が指導的な役割を果たしているんだけど、カトリックとは違って特に拘束力があるわけでもないんだ。

そんな理由もあってなのかどうなのか、今回のようにゆるーく大主教が決められてしまうこともあるのかもね。今回、大主教に選任されたウェルビー主教も記事の中でこう言ってる。『英国国教会というのは非常に人間的なものなんです』。英国国教会が、一人の王様の離婚問題から派生したという歴史一つをとってみても、やっぱり「人間的な」宗派ということには違いないのかも?

ウェルビー大主教、みんなに慕われる指導者になってくれそうだよね。
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【news】宗教信者は無神論者を信用できない!?
2012-01-12 Thu 13:59
教信者は無神論者を信用できない!?
(cjcpress 2011年12月05日 19:10)

 【CJC=東京】宗教を信仰している人は、世界で推計5億人いる無神論者を、強姦犯と同じくらい信用していないとの研究結果が12月2日、専門誌『ジャーナル・オブ・パーソナリティー・アンド・ソーシャル・サイコロジー』に掲載された。
 論文の主執筆者、カナダ・バンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学博士課程のウィル・ジェルベー氏(心理学専攻)は、「宗教を信仰している人びとが多数派の場所、つまり世界のほとんどで、無神論者は最も信用できない人びとのグループに入る」と述べた。AFP通信が報じた。
 研究によると、神への信仰を表に出す人は、信頼できる人として見られるのだという。特に「神に監視された方が人間は善行をすると考える信者」の間でこの傾向が強かった、と共同執筆者のエイラ・ノレンザヤン氏は語る。
 研究チームは、米国の成人350人とカナダの学生420人を対象に、複数の仮定にもとづいた質問やシナリオを出した。その結果、「信用できない人」は、キリスト者やイスラム教徒、同性愛者の男性、フェミニスト、ユダヤ人よりも、無神論者である可能性が高いと考えられていることが分かった。無神論者と同程度に「信用できない」人びとは強姦犯だけだった。
 研究チームは、信仰者の無神論者に対する偏見は、嫌悪感や反感よりも、不信感によって動機付けられていることが分かったと結論づけている。






う、年が明けて半月近く経ってしまいましたが…。

皆様、明けましておめでとうございます。

ものぐさ太郎な管理人、のな を今年もどうか宜しくお願い致しますm(__)m


ころで皆さん、年明けには初詣へ行きました?それとも家でごろ寝…?(笑)
参拝する時、みんなはどんな気持ちになりますか?幸せになる?安らぐ?

…どうしてそんな事を聞くのかというと。
「初詣」という日本の伝統行事が、今年一発目に取りあげたこの記事の内容とも関係があるからなんです。


ある専門誌に掲載された論文によれば、「宗教を信仰している人びとが多数派の場所(つまり世界のほとんど)では、宗教者は無神論者を最も信用できない人びとのグループに入ると感じている」という研究結果が出たというんです。しかもこの研究結果では、宗教者が無神論者と同程度に「信用できない」と感じている人びとは「強姦犯だけ」だったという、やや衝撃的な事実も報告されています…。

世界で何らかの信仰を持つ人々にとって、無神論者は強姦犯と同じくらい危険な人物であると感じている…。日本人にはピンとこない話かもしれませんが。でも確かに、世界ではそういう傾向にあるのは事実のようです。

…それは一体どうしてなんでしょうか?

理由は人によって様々なんでしょうけど、でも大きな理由としては二つあげられると思います。

まず一つは、何も宗教を持たない人々には共産主義者が多いということです。
共産主義において、宗教というのは麻薬のようなものであると位置づけられることが多かったからです。共産主義では格差を嫌います、どんな小さな貧富の差でもあってはならず、皆が完全な平等である事を理想とします。貧富の差は搾取する人とされる人に分けられる事から始まる。搾取される人々は当然つらい、でも、神に拠り頼めばつらい労働も何とかこなす事が出来てしまう。結果、搾取する側される側という関係はその先も続いてしまい、格差は無くならない…。つまり共産主義者たちは宗教を、人々を麻痺させて貧富の差を助長してしまう「麻薬」であると考えたのでした。今でも、世界最大の共産主義国である中国の共産党員たちは、当然信仰を持つ事を禁じられ、中国国内では宗教弾圧が続けられています。世界で「無神論者=共産主義者」と考えている人々は少なくないのです。

もう一つの理由として、何も宗教を持たない人々には道徳心やモラルが欠如していると思われる可能性が高いということです。これはかなり大きな理由だと思います。
日本では、家庭や学校など社会の様々な場面で道徳を習得していくという感覚がありますよね。でも世界全体を見渡すと少し違っていて、ほとんどの国では道徳の基盤ははっきりしています。それは宗教です。神様や仏様を敬い、謙虚な心を持つ事から道徳心が芽生えていくのだとされます。では、そういった国々で「私は無神論者です」あるいは「私は無宗教者です」と自己紹介すると一体どう思われるのか…。きっと相手はこう考えます、「この人には畏れ敬う神も仏もない、つまり、自分自身を神よりも上の存在だと思っているのか。きっと自己中心的で神をもおそれぬ危険な人物に違いない…。何をされるか分からないから遠ざかっておこう…」。道徳の基盤がはっきりと宗教にある海外で「無神論者=道徳心のない人=危険人物」と思われる可能性があるというのは、つまりそういう事なんです。


っき、日本では家庭や学校など社会の様々な場面で道徳を習得していくと言いましたけど。それってつまりどういうことなんでしょうか…?

自分の小さかった頃を思い浮かべてみると、よく両親や親戚のおじさんおばさんたちに叱られていたのを思い出します。「年長者を敬いなさい」「嘘をつかずにいなさい」「意見ははっきり言いなさい」「礼を忘れずにいなさい」「食事の前後にはちゃんと挨拶しなさい」などなど…。きっと、みんなもそうですよね?

新渡戸稲造(にとべいなぞう、1862-1933)という教育者は、自身の著書『武士道』の中でこんな事を語っています。彼はベルギーの法学者から、「日本の学校には宗教教育がないというならば日本人はどうやって子孫に道徳を授けるのか」と質問されます。

その時、私はその質問に愕然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校で受けたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹きこんだものは武士道であったことにようやく思いあたった。


新渡戸は色々と考えた結果、自分が身に付けた道徳は「武士道」から来ていたのだと気づくわけです。

武士道というと何か大袈裟な気もしますけど、でも武士道の基本になっている誠実や仁義、勇気や礼儀、名誉や忠義といった考え方は、なるほど確かに自分たち日本人の道徳の基盤になっていると気づきます。

さらに言えば、武士道の思想とは、もとを辿れば仏教・神道・儒教の教えが複雑に絡み合って生まれてきたんです。

日本人の道徳の基盤は武士道にあり、そして武士道の基盤は仏教・神道・儒教にある…。
つまり、家庭や学校など社会の様々な場面で何気なく道徳を習得していると思っている私たち日本人と言えども。やはり、道徳の基盤は宗教にあるのです。


界からは、日本人はちょっとユニークな宗教観を持っていると言われて久しいですけど。最近、「自分は無宗教です」と口にする人も増えてきているようです。無宗教式の結婚式や、無宗教式のお葬式などがどんどん数を増やしているというから驚きですよね。

ここで、冒頭の話に戻りましょう。

皆さん、初詣には行かれました?
初詣ではどんな気持ちで参拝します?きっと、願い事が聞き届けられますようにと心から祈りながら参拝しますよね。「あーやだなー、神なんて非科学的なのに、自分なんで手合わせてんだろ、バカみたい」と思いながら参拝する人なんていませんよね。そもそも、そんな人なら最初から参拝なんかしませんもんね(笑)

不思議ですね…。
無宗教を名乗る人々が周りに沢山居る一方で、毎年お正月にはこれだけ大勢の人達が寒い中参拝に出かけるなんて。一見、矛盾しているようにも見えます。

でも、「私は無宗教だから」と名乗る日本人のほとんどは、自分から言わせればさっぱり無宗教者には見えませんよね。もし本当の意味での無宗教者を名乗るなら、結婚式は一切なしで役所に行くだけとか、初詣にも地元の祭りにも顔出さないとか、遺言で寺の墓には入れず散骨してくれと書くくらいのことはすべきですよね。つまり、無宗教者レベルがまだまだ低いというか、修行が足らんというか(笑)

でも、神社でわざわざ長い列に並んで社殿の前で拍手打って穏やかに手を合わせる人々を見るにつけ、それだけでみんな本当に立派な誇らしい神道者だなと思うし。お寺で手を合わせている人を見れば、それだけでみんな立派な誇らしい仏教徒だなと思いますよね。

だから、自分が言いたいのはつまりこういう事なんです。


なにも、日本人は無理して無宗教者を名乗らずに、誇りを持って神道者や仏教徒を名乗ればいいじゃない。


どうして神道者や仏教徒だと名乗ることがそんなに恥ずかしい事なんだろうと、自分はそれが不思議です。

そもそも、世界の人々は日本人が無宗教者などとは思っていません。一般的に日本が世界に紹介される場合、日本は buddhism(仏教) あるいは shintoism(神道) の国であると紹介されるのが普通です。それはそうですよね、ちょっと街を歩けばあちこちにお寺や神社を目にするような国なんですから、それで宗教と全く無縁でいられるほうが難しいとは思いません?


海外に行ったときはもちろん、普段でもよほどの信念がない限りは無宗教者や無神論者を名乗らないことです。

自分はキリスト教徒だけれど、仏教・神道・儒教の上に育まれてきたこの国の文化を誇りに思います。だから、みんなにもそれを誇りに思って大事にして欲しいんです。


新年一発目、のな からみんなへの提案なのでした( ̄▽ ̄)。
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【news】氷点下の26時間待ち、「聖母マリアの帯」に行列5キロ 露モスクワ
2011-11-29 Tue 21:30
点下の26時間待ち、「聖母マリアの帯」に行列5キロ 露モスクワ
(AFP通信 2011年11月25日 15:05)

【11月25日 AFP】ロシア・モスクワで、ギリシャから巡回してきたキリスト教の聖遺物「聖母マリアの帯(Belt of the Virgin Mary)」を一目拝もうとする信者らの行列が、長さ5キロ、地下鉄4駅分にまで及んでいる。

「聖母マリアの帯」は、ギリシャにある女人禁制の聖地アトス山のバトペディ修道院に保管されている聖遺物で、めったに公開されない。ロシアでの公開は初で、10都市を巡回し、19日にモスクワの救世主ハリストス大聖堂(Cathedral of Christ the Saviour)に到着した。

 大聖堂前には気温が氷点下を記録する中、24日だけで8万2000人が長蛇の列を作った。モスクワ市当局によると、忍耐強い信者らの行列は19日から通算で40万人を超えたという。

「聖母マリアの帯」は多産や病気治癒に御利益があると信じられている。「願い事があるんだ。ここには、興味本位で並んでいる人などいないよ」と話すイワンさん(40)は、妻や子どもと一緒に昨夜から12時間並んでいるという。各メディアは、「聖母マリアの帯」を見物するまでの待ち時間は最大26時間と報じている。

 あまりの盛況ぶりに、ロシア正教会は「聖母マリアの帯」の公開期間を3日間延長し、27日までとした。関係機関では一部道路を通行止めにするなど行列への対応に追われている。

 ロシアでは、旧ソビエト連邦時代に弾圧を受けていたロシア正教会の影響力が近年、増している。救世主ハリストス大聖堂は1931年に旧ソ連政府によって爆破されたが、1997年に同じ場所に再建された。(c)AFP/Maria Antonova






点下の中で26時間も待つなんて…。
みなさん、よく天に召されませんでしたね…。ロシア人はやっぱり寒さに強いのか…?

聖遺物というのは、キリスト教カトリックにおいてイエス・キリストの遺品、あるいは諸聖人の遺骸や遺品とされる物のことをいいます。

聖遺物とされる物は世界各地にたくさんあります。
有名な物では、最後の晩餐でイエスがぶどう酒を飲むのに使ったとされる「聖杯」、十字架上のイエスの脇腹をひと突きしその死を確認するために使われたとされる「ロンギヌスの槍」、イエスが磔刑に処されて亡くなったあとその遺体を包むのに使われたとされる「トリノの聖骸布」。などなど…。

古代から中世にかけて、これらの聖遺物は盛んに信仰の対象となっていたようです。

でも、それに呼応するかのように聖遺物とされる「まがい物」も盛んに作られるようになりました。
聖遺物を所有するという事は単に信仰心からくるものだけではなく、教会や町や国の格を高め、さらには沢山の巡礼者や観光客を呼び込む事にもつながったからです。

なんでも、イエスの手足を十字架に打ち付けたとされる「聖釘」は、現在世界に30本近く伝わっているんだそうです。

イエス、いったい手足が何本あったのだろう…。


このように、中にはちょっと疑わしい代物もある聖遺物なんですが…。

しかし、永い時の中で多くのキリスト教徒の信仰の拠り所となってきた事は事実なんです。
これらの聖遺物を目にすることにより、時代ごとのキリスト教徒たちはイエスや諸聖人たちの姿を思い浮かべ、より身近に感じ、教えを胸にし、そして日々一生懸命生きてきたんですね。

そして、この現代でも聖遺物たちのその役目は変わらず続いているようです。


ただこの記事を読んでひとつ驚いたのは、この行列に並ぶ多くのキリスト教徒たちが聖遺物に対して「多産や病気治癒に御利益があると信じている」ということ。

日本の神社などでは、八百万のそれぞれの神様にお願い事をする「御利益」という慣習がありますけどね。でもそれがロシアのキリスト教徒たちにも、しかも聖遺物に対してそういった感情が生まれているというのは…、意外でした。

これがキリスト教の教義的にどうなんだと言われれば、また色んな意見が出てくるんでしょうが…。
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【news】エジプト 民主化プロセスに暗雲 コプト教徒と軍衝突で25人死亡
2011-10-19 Wed 19:57
ジプト 民主化プロセスに暗雲 コプト教徒と軍衝突で25人死亡
(産経新聞 10月12日(水)7時55分配信)

 【カイロ=大内清】エジプトの首都カイロ中心部で9日夜、キリスト教の一派コプト教徒のデモ隊と、軍や近隣のイスラム教徒との衝突があり、25人が死亡、300人以上が負傷した。両宗教間の反目がさらに強まるだけでなく、今後の民主化プロセスに複雑な影を落とすことも懸念される。

 同国では2月のムバラク前政権崩壊後、治安機関が一時弱体化したことや、急進的なイスラム勢力の台頭もあり、もともと根深かったコプトとイスラムの対立が先鋭化していた。

 加えて、民主化勢力の間には、民主化で既得権益を失うことを恐れる前政権関係者らが、宗教対立を利用し社会不安を醸成しようとしているとの指摘もある。

 今回の事件では、同国南部で9月に起きた教会襲撃事件に抗議するコプト側と、軍部隊とがにらみ合っているところに何者かが発砲し兵士らが死亡。国営テレビが「コプトの発砲」と断定的に報じたことなどから、怒ったイスラム教徒が駆けつけ衝突が拡大した。

 その後、全権を握る軍部は10日、衝突を扇動する者がいなかったかなどを調べる委員会の設置を命じた。同国では今後、11月の人民議会選など重要選挙が続く。混乱に拍車がかかれば、治安機関が再び強大化し民主化の進展に影響を与える可能性もある。

 ■抗議の副首相が辞任

 国営テレビによると、ベブラウィ副首相が11日、辞表を提出した。副首相は、政府の対応が不適切だったと述べているといい、抗議の辞任とみられる。






2010年12月にチュニジアで起きた一人の男性による焼身自殺、それが発端となってアラブ世界へと一気に波及した大規模な反政府デモ。「アラブの春」と呼ばれたこの一連の騒動は、エジプトにおいては30年にも及んだムバラク独裁政権を崩壊させるまでに至りました。

どの周辺国よりも一足早く民主化への道を歩み始め、幸せな未来が見えたかに思えたエジプトですが…。

でも実際にはエジプト経済は革命前よりも悪化してしまいましたし、観光客も四分の一にまで減ってしまったそうです。さらに暫定政権への不満が高まり毎週のようにデモが起きるなど、未だに混乱状態が続いているようなんです…。


かでも懸念されているのは、なんと言ってもやはり治安の悪化です。

特に最近大きな問題になっているのは、一部の過激なイスラム教徒によるキリスト教徒への襲撃事件
エジプトというとイスラム教徒の国というイメージが強いですが、じつは国民の約一割はコプト教という宗派に属するキリスト教徒なんです。

「コプト」とは、ギリシャ語で「エジプト」という意味です。
七世紀、エジプトはイスラム教徒によって征服されるのですが、コプト教徒たちはそれ以前からこの地域で暮らしていました。エジプトの人口8300万人のうち約一割、数百万人規模の人々が今でもコプト教徒だと言われています。
451年にカルケドンという都市で行われた公会議(キリスト教の聖職者達による会議、教義における最高権威)において異端とされてしまい、それ以来初代教会から分離。そして現在に至っています。

今年の5月、カイロ市内のコプト教会がイスラム過激派に襲われ12人が死亡するという事件が起こりました。さらに、9月にも同様の事件が発生。
今回コプト教徒らがデモを行っていたのは、これらの事件に対する政府の対応に不満を抱いていたからです。じつはこれまでもコプト教徒らはたびたび一部のイスラム過激派から被害を受けていたにも関わらず、なかなか事件を取り締まってくれない政府に常日頃から苛立ちを覚えていたんです。そのデモ隊と軍がぶつかり、今回多くの死傷者を出してしまいました。

しかしそうは言っても、それでも今までは比較的襲撃事件は抑えられていたほうでした。
じつはムバラク政権時代、過激な活動を行うイスラム過激派は徹底的に弾圧されていたからなんです。

ところがアラブの春以降、ムバラク政権が崩壊してしまうと今までのイスラム過激派の活動を押さえつける力がなくなってしまいました。次第にイスラム原理主義勢力は大きな力を持つようになり、一部の過激派がここぞとばかりにコプト教会を襲撃するようになってしまったのです。


独裁者ムバラクがいない今、以前のようにこれらのイスラム過激派を簡単に押さえつけることは出来ません。

アラブの春によってもたらされた民主主義ですが、それによってこういった事態が引き起こされているというのはとても皮肉なことだと思います…。
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【news】英BBC放送が「AD」「BC」に代え「CE」「BCE」採用
2011-10-15 Sat 04:43
BBC放送が「AD」「BC」に代え「CE」「BCE」採用
(cjcpress 2011.10.10 17:02)

 【CJC=東京】英公営BBC放送が紀元を表す「AD」「BC」の代わりに「CE」(共通紀元)、「BCE」(共通紀元前)を採用する、とウエブサイトで明らかにした。「AD」は「わたしたちの主の年」を「BC」は「キリスト以前」を意味しており、非キリスト者の感情を害するので、「BBCは公平を意識しており、非キリスト者の感情を傷つけたり敵視しない用語を使用することは正当なこと」と言う。
 これに対しボリス・ジョンソン・ロンドン市長ら政治家からも批判の声が上がっている。変更自体が無意味との批判もある。所詮はキリストの生涯に関係してくるからだ。マイケル・ナジル=アリ前ロチェスター主教は「この変更は必要ないし、BBCの目的は達成されない。CEにせよADにせよ日付は実際には同じなのだから、やはりキリストの生誕に関係づけられる」と言う。
 これらの批判を考慮してか、BBCは「紀元に関する指針を定めてはいない。ADとBC、CEとBCE双方が広く受け入れられており、選択はそれぞれの番組、制作チームに委ねられている」と発表した。






BCと言えば、ロンドンのホワイトシティに本社を置くイギリスの公共放送局ですが。

今回そのBBCが、現在の西暦にも使われている「紀元の表記方法」を改めると発表しました。


西暦とはキリスト教の暦です。
イエスの生まれた年を紀元元年とし、紀元前は「BC(Before Christ、キリスト以前)」、紀元後は「AD(Anno Domini、主の年から)」と表します。

今年は「AD2011」、つまりイエス・キリストが生まれてから2011年目という意味になるんです。

注):
しかし、実際にイエスが生まれたのは紀元前6~4年頃ではないかと言われています。
イエスが生まれたのはヘロデという人物がユダヤ王として統治していた時代という事が分かっていますが、じつはヘロデは紀元前4年に死亡しているんです。よって、イエスの誕生が紀元前4年以降ということはあり得ません。
西暦が作られた時に、何らかの計算ミスがあったのではないかといわれています。


今日暦を扱う場合、このキリストの誕生を紀元とした西暦を使うのが世界基準となっていますが。今回、BBCのこの発表でなにやら揉めているようです…。

BBCは、世界にはキリスト教以外の宗教を信仰している人たちもいることを認識した上で、こう主張しています。

BBCは公平を意識しており、非キリスト者の感情を傷つけたり敵視しない用語を使用することは正当なこと。



このBBCの主張に対し、バチカン機関紙『ロッセルバトレ・ロマノ』の記者であるルセッタ・スカラッフィアさんは紙上でこんな反対意見を述べています。

非キリスト者の報道関係者の多くが「これまでの紀元で何か気にさわったと感じたことはない」と語っている。


他の宗教に対する尊敬というのは口実に過ぎないことは明らか、西側文明からキリスト教の痕跡を拭い去りたいと思っているのだ。



…みなさんはどう思いますか?
「西暦」は世界基準?それともキリスト教の押し付け?

「AD」としようが「CE」としようが、その後に続く日付は同じ「2011」。
その日付自体にキリストが生まれてから2011年目という意味が含まれているのだから、記事中でもボリス市長が言っているように、結局キリストとの関連は断ち切れないように思えます。

それ以前に、既に世界で使用されている「BC」「AD」表記を改めて、今から「BCE」「CE」表記に切り替え世間に浸透させるというのもやっぱりかなりの労力になるし、いたずらに混乱を招くのではないかと心配にはなりますよね…。

BBCは「CEとBCE双方が広く受け入れられており」と言ってるようだけれど、そうなのかな。
自分は今までそんな言葉聞いた事がなかったんです。


ころで。

今回のこの問題は、イギリスで端を発し、世界中で物議を醸しているものですけれど。
じつは、ここ日本でも同じような問題が起こっているんですが。知っていましたか?

それが、日本で使われている「元号」に関する問題です。

元号とは「昭和」「平成」など、特定の年代に年を単位として付けられる呼称。
今年は「平成23年」ですが、現在は元号法によって「天皇の皇位継承があった場合にのみ改める事(一世一元の制)」と定められているので、これはつまり「今上天皇が皇位継承してから23年目」という意味になりますね。

これに対して黙っていられないのが、日本に暮らす一部のキリスト教徒の皆さんです。
近年、日本に暮らす一部のキリスト教徒らが、この元号表記に反対する動きが現れています。

まず、天皇というのは神道の祭祀をつかさどる「祭祀王」であり、国民の安寧を願って神道儀式を行うのが天皇の最も重要なお仕事だということは皆さんご存知のとおりだと思います。
つまり、その天皇が皇位継承するたびに元号が変わるという事は、元号には少なからず神道との関連性が示されるという見方も出来るわけですね。

日本に暮らす一部のキリスト教徒らの主張によれば、「この元号は神道という特定宗教の押し付けだ!」というわけです。

宗教の違いはあるけれど、その根っこは今回のイギリスBBCの問題と同じではないでしょうか?


分の考えを言わせてもらうと。
西暦問題で言えばこれはやっぱりBBCが、そして元号問題で言えば日本国内の一部のキリスト教徒が、それぞれ過剰に反応し過ぎのような気がしています。

西暦、元号。
確かにそれらの生まれた経緯にはそれぞれの宗教が関わっているかもしれないけれど、今となってみればこれは宗教の垣根を越えた人類皆にとってのかけがえのない財産、永い歴史の末に形作られた人類皆で共有すべき文化です。

そこに、「押し付け」などという何者かの意思はまったく存在しないはずなんです。
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【news】<イスラエル>入植地が防衛拠点…住民「家が3割安い」
2011-10-05 Wed 19:19
<イスラエル>入植地が防衛拠点…住民「家が3割安い」
(毎日新聞 9月29日(木)21時56分配信)

 【アルフェイ・メナシェ(ヨルダン川西岸) 花岡洋二】イスラエル政府が占領地東エルサレムの南部ギロにユダヤ人住宅1100戸の建設を新たに許可した問題が、波紋を広げている。東エルサレムを将来的に独立国家の首都としたいパレスチナ側は「中東和平交渉再開の障害」と猛反発。国際社会の批判も高まっている。パレスチナによる「国家」としての国連加盟申請で双方の緊張が高まるなか、イスラエル政府はなぜいま、あえて入植政策を進めるのか。その狙いと、入植地に暮らす人々の思いを探ろうと、ヨルダン川西岸の入植地アルフェイ・メナシェを訪ねた。

 アルフェイ・メナシェは1983年に建設された入植地で、人口は約6700人。第3次中東戦争(67年)でイスラエルが西岸を占領する直前の「67年境界」から、東に約4キロの丘陵に位置する。

 中心部の小高い丘に立ち、眼下を見渡した。入植地の住宅にありがちな赤い屋根の一戸建てが整然と並ぶ。南西約20キロにある最大商業都市テルアビブが肉眼で見える。

 イスラエル政府は80年代、ヨルダン川西岸の西端の境界付近に、相次いで入植地を築いた。政府当局者だった軍事アナリストによれば、アルフェイ・メナシェを含むこうした入植地は「(テルアビブや近郊の)都市部への侵攻や砲弾射撃、偵察を防ぐために作られた」という。

 ネタニヤフ首相は23日の国連演説で「入植地は、争いの(原因でなく)結果だ」と指摘。5月にオバマ米大統領が「67年境界」を基本に国境交渉を進めるよう促した時も、「(イスラエルの)安全を保てない」とかたくなに拒んだ。

 イスラエルにとって入植地は、武装勢力や敵国からの攻撃を防御する戦略拠点であり、緩衝地帯でもあるのだ。

 占領地へ国民を移住させるのは国際法違反だ。だがイスラエルは、西岸などが「どこの国土でもない」ことを根拠に、戦時国際法でいう軍事占領とは認めていない。今は西岸の土地約9%に約120カ所の入植地があり、約30万人が住んでいる。

 人々はどんな思いで入植地に移り住むのか。展望台周辺は、地中海に沈む夕日を楽しむ家族連れでにぎわっていた。

 3年半前にテルアビブ近郊から越した会社員(36)は「空気も治安もいい、コミュニティー活動も盛んだ。家の価格も(イスラエルより)3割以上安いからね」と話す。イスラエル政府は補助金で住宅費などを抑え、入植地への移住を奨励している。背景には、入植政策への世論の支持を高める狙いがある。

 一方で、宗教やイデオロギー上の理由から移住する人もいる。男性警備員(55)は「聖書でユダヤ人に約束された土地だからだ」と語った。

 同じ展望台から見下ろすパレスチナ自治区の農業都市カルキリヤ。アルフェイ・メナシェへのアクセス路や高さ8メートルの分離壁でほぼ完全に取り囲まれ、人々の移動が厳しく制限されている。野菜や養鶏産品の商圏だったイスラエルから切り離され、失業率は約25%。入植地の存在がパレスチナ人の土地を寸断し、地下の水資源を奪い、生活を圧迫している。

 自治政府のアッバス議長は23日、国連で「入植地建設は(紛争の結果ではなく)問題の根源だ」と非難した。






スラエル住民による、パレスチナ自治区への違法な入植が後を絶ちません。

1993年にはアメリカの仲介によってパレスチナの暫定自治で和解を図るオスロ合意が締結されたはずなのですが、その後も衝突は繰り返され。2010年9月に再び直接和平交渉が再会したのですが、またまた今回のような問題が起こってしまいました…。

イスラエルは、どうしてそこまでしてパレスチナの地を自分たちの物にしたいと思っているのでしょうか?
彼らの心の内を知るヒントは、記事中の男性の言葉にあるかもしれません。

「(パレスチナは)聖書でユダヤ人に約束された土地だからだ」
…これは一体どういう意味なんでしょうか?


イスラエル国民の約8割はユダヤ人で、彼らはユダヤ教を信仰しています。

ユダヤ教で使われている「聖書」とは、キリスト教でいうところの「旧約聖書」とほぼ同じ物にあたるんですが。その聖書の中には何が書いてあるのかというと、有名な神様による天地創造から始まり、人類の誕生、族長たちの物語、モーセによるエジプト脱出、イスラエル統一王国の誕生と栄華、そして王国の滅亡…。などといった事が記されています。つまり、聖書には「イスラエルの歴史」が語られているのです。

その聖書の中に「創世記」と呼ばれる書物が含まれており、そこにはユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の祖先とされるアブラハムという人物が登場します。創世記の中のアブラハムとその子孫たちの物語を「族長物語」といい、そこではイスラエル民族の出自が語られているんです。つまり、イスラエルの歴史はここから始まるんですね。

聖書から、創世記の記述の要約を一部覗いてみましょう。

ウル出身のアブラハムは、家族と共にハランに移り住んでいました。ある日神から「わたしが示す地に行きなさい」と命を受け、妻のサラと甥のロトを連れて旅立ちます。アブラハムがカナン地方(パレスチナ)に入ると神が現れ、「あなたの子孫にこの土地を与える」と言いました。



ハランという町はチグリス川とユーフラテス川に挟まれており、現在のトルコに今でも存在する町ですが。アブラハムは神の命を受け家族と共にそこから南西に旅立ち、ついにカナンと呼ばれる地方に辿り着きます。このカナンこそが、現在のパレスチナでした。そこに再び神が現れ、「あなたの子孫にこの土地を与える」と言ったと記述されています。

ですからユダヤ人からすれば、ここは神様が私たちユダヤ人に与えると約束してくれた土地、つまり「約束の地」というわけです。イスラエルの住民が国際的な約束ごとを破って次々とパレスチナ自治区の内部に入り込み入植地を作り上げていく、その背景の一つにはこうした宗教的な主張も大きく関わっています。彼らにとってバックに居るのは他ならぬ「神」ですから、神との約束を信じて怖いものなど何もないという感覚なのかもしれません。

でも神との約束を盾にしてパレスチナへ無理矢理移り住んだイスラエル人と、パレスチナ人との間では争いが絶えません。イスラエル人の入植によって居住地をどんどん狭められたパレスチナ人の家には、イスラエル人の投石による嫌がらせも多いそうです。果たして彼らの神様は、隣人に対して投石で嫌がらせをしろとも命じたのでしょうか…?

ところでパレスチナに住んでいる住民の多くはイスラム教徒ですが。
そもそも、ユダヤ教とイスラム教で信仰している神様はまったく同じ神様なんです。
ちなみに、キリスト教で信仰されている神様もユダヤ教の神様とまったく同じです。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。
この三つの宗教の根っこは全てつながっている、いわば兄弟のような関係なんです。

そしてその神様が示したカナンという土地、つまり現在のパレスチナという土地にはこの三つの宗教の共通の聖地・エルサレムがあります。

その事実を踏まえた上で。
さて、聖書の中で神様がアブラハムに言ったとされる「あなたの子孫にこの土地を与える」という言葉とは。一体どういう意味だったんだろう…。

アブラハムがユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の祖先となっているという事実からも、その答えはおのずと見えてくるのではないでしょうか。

少なくとも、現在イスラエルのユダヤ人達がパレスチナ人に対して行なっている事が、神様の望んでいる事だとはとても思えませんよね。


パレスチナ紛争。
この問題は宗教的な対立以外にも、さまざまな政治的な問題が絡み合ってとても複雑です。

今回は、宗教的な思想を背景とする問題について触れてみました。
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【news】米大統領選、候補者の宗教関係が焦点に
2011-09-15 Thu 15:23
大統領選、候補者の宗教関係が焦点に
(cjc通信 2011年09月05日21:06)

 【CJC=東京】米国では来年の大統領選挙を控え、出馬表明した人の間で神学論議が高まっている。
米国では今もプロテスタントが主流を占めるところから、信仰に触れる人も福音派が盛んで、自らの信仰深さを示そうと舞台に招き上げるのも福音派の牧師がほとんど。ユダヤ教のラビやカトリック司祭の顔が見られることはまずない。
 共和党員の7割、民主党員の過半数が、大統領候補は非常に強い宗教信仰を持っていることを重要視している。
 1960年、カトリック信徒として最初の大統領となったジョン・F・ケネディは、宗教を個人的なものとして、プロテスタントの投票者の懸念を拭い去ることに成功したが、今ではその戦略は効果がない。
 政治家は、どの教会に出席しているかだけでなく、その教派の教えや毎日曜日にそこの牧師が何を語っているか、によっても評価されるようになった。
 共和党では、テキサス州知事が、祈りのラリーを数えきれないほど開催、聖書を読み、キリストに呼び掛け、それらを全てウエブ上に公開している。
 「候補者は、自分の宗教について厳しい選択を迫られている。それについて語るか否か、何を語るか、教会を離れることも含め何をやろうとしているか、といったことだ」と語るのはオハイオ州アクロン大学のブリス政策研究所のジョン・グリーン所長。
 候補指名獲得の争いが過熱する中で、候補者の宗教に関心が持たれるのは、有権者の間で宗教的な不一致が見られることもあるが、経済か社会問題かといった優先課題にも違いがあるからでもある。
 すでに2008年、当時のバラク・オバマ候補は、シカゴ時代の教会のジェレミア・ライト牧師との関係を断ち切っている。同牧師が説教で、同時多発テロ事件を引き起こしたことに米国の外交政策が大きく影響した、と語ったためだ、という。






メリカでは来年の大統領選挙に向けて、各候補者が熱い火花を散らしつつ各地で演説を繰り広げているようですね。

日本では全く考えられないけれど、アメリカの政治を考える上で宗教的な論調は欠かせません。
記事にも『大統領候補は非常に強い宗教信仰を持っていることを重要視している』とあるとおり、アメリカの政治では常に各候補者の宗教的な価値観が重要視されるんです。

だから、大統領選の各候補者達の演説が大きなキリスト教会で行われる事などもしばしば。
寺や神社で選挙演説を行うようなものだし、ちょっと日本では考えられない光景ですよね…。

候補者の主義主張は国民から常に厳しいチェックを受けることになりますが、そのチェック項目は主に四つと言われていて。
それは「銃規制」「同性愛」「妊娠中絶」、そして「信仰心」
これらはアメリカの政治では常に争点になるデリケートな問題で、大抵の場合は宗教的な観点から議論される場合がほとんどなのです。


…でも。
じつを言うと、これらの宗教に端を発する問題が政治の重要な争点になって来たのはここ最近で。昔からそうだったワケではないんです。

記事にもあるように、例えばジョン・F・ケネディの時代にはそこまで宗教的な縛りは強くはなかったようですね。信仰する宗派や信条などは個人的なものとして、とてもバランスが取れていました。

今のような状態になり始めたきっかけは、どうやら1980年代から2006年まで続いたアメリカの保守連合による政治的な支配にあったようです。

保守連合、つまり経済的に保守的な考えを持つ人々と、思想・宗教的に保守的な考えを持つ人々。この二つの保守が1980年代にレーガン政権の元で合体することになり、それ以降2006年まで上下院ともにこの二つの保守派に支配されるという長い時代があったのです。

そのあいだに、アメリカ国内で爆発的に増えたのがいわゆる「キリスト教原理主義者」と呼ばれる人々。キリスト教における信仰に関してとても厳格・保守的で、聖書に書かれている文言を一字一句間違いのない神の言葉であると主張する人々です。もちろん、彼ら自身は自分たちのことを原理主義者とは言いません。彼ら自身は、自分たちのことをアメリカ国内で「福音派」と名乗っている場合が多いようです。
(しかし誤解の無いように一言添えるなら、福音派は本来穏健な宗派であって原理主義的な考えを持つ事は少なく。彼らが勝手にそう名乗っている、というのが事実に近いようです。)

彼らは、自分たちの主張に応えてくれる当時の保守政党・共和党を熱烈に支持しました。
今でも共和党はキリスト教原理主義者たちの圧倒的な支持を得ています

アメリカ国内のキリスト教原理主義者の数は年々増え続け、現在ではアメリカ全人口の二割近く、8000万人以上とも言われていますが。彼らのほとんどは共和党を支持しているワケです。

だから、大統領選の候補者たちは彼らを無視することなんて絶対に出来ないですし。したがって、演説ではどうしても信仰心に基づく主張が問われてくるという具合なんですね。


現代のアメリカ政治をも動かしてしまう「キリスト教原理主義者」という巨大組織。
これは、今日のアメリカではとても大きな社会問題の一つです。

日本にはキリスト教徒がほとんどいません。
しかしアメリカと最も近しい国である以上、この問題についても無縁ではないと言えます…。

アメリカという国の背景を考える時、こういった問題もあるという事をぜひ頭の片隅に置いていてほしいと思います。
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【news】極右キリスト教徒の犯行=連続テロの死者92人に―ノルウェー
2011-07-26 Tue 03:32
右キリスト教徒の犯行=連続テロの死者92人に―ノルウェー
(時事通信 7月24日(日)1時32分配信)

 【オスロ時事】ノルウェーの首都オスロ郊外のウトヤ島で起きた銃乱射事件で警察は一夜明けた23日、死者が少なくとも85人に達したと発表した。これによりオスロ中心部での爆弾テロと合わせた犠牲者は92人に上った。今回のテロは、約200人が死亡した2004年のマドリード同時テロ以降、西欧では最悪。警察は逮捕したノルウェー人のアンネシュ・ブレイビク容疑者(32)について「極右とつながりのあるキリスト教原理主義者」と明らかにした。
 報道によると、警察は同日の記者会見で、ブレイビク容疑者を爆弾テロおよび乱射事件の容疑で訴追したことを明らかにした。同容疑者はオスロで爆弾テロを起こした後、警官の服に着替えてフェリーに乗るなどして、与党・労働党の青年部集会が開かれていたウトヤ島に向かったとみられている。
 警察によれば、島では約1時間半にわたって発砲を続けたが、警官隊に投降を求められると素直に応じた。このため銃撃戦にはならなかった。一方、警察はまだ単独犯とは断定していない。
 同容疑者は5月、爆弾製造に使用可能な化学肥料を6トン購入していた。関係者によれば、この量は肥料としての買い付けとしては通常という。
 事件を受けてこの日、ハラルド国王夫妻がテロの生存者や家族が宿泊しているホテルを慰問に訪れた。ストルテンベルグ首相もこのホテルを訪れ、若者らを励ました。
 これに先立ち、同首相はオスロで記者会見し、「わが国にとって悪夢であり、国家的悲劇だ。犯罪によりノルウェーがこれほどの規模で被害を受けたのは、第2次世界大戦後初めてだ」と指摘。「わが国の民主主義、より良い世界を求める理念は破壊できない」と強調した。






撃的な事件が起きてしまいましたね…。


まずはいつもどおり、国についての情報から。

事件のあった ノルウェー王国 は、人口481万人、面積は日本とほぼ同じ、言語はノルウェー語が話されており、国民の94%がノルウェー人です。

首都は オスロ、今回の銃乱射事件はこの街の郊外の ウトヤ島 で起きました。

ノルウェーで信仰されている宗教は ノルウェー国教会(キリスト教)、国民の86%がこれを信仰しています。

このノルウェー国教会はプロテスタント・ルター派の流れを汲み、ノルウェー国内で11の司教区に分かれています。

ルター派というのは比較的穏健で寛容な宗派ですから、ノルウェーという平和なイメージはそこからも影響されているのではないかと思います。

ですから、そんなノルウェーで今回のような凄惨な事件が起きてしまったのはとても衝撃ですし。何より、ノルウェー国民の皆さんが一番驚いているんじゃないかと思うんです…。

どこの国にも偏った思想の人間は居るものですけどね、しかしよりによってノルウェーという地域でここまでの極右思想の人間が暴挙に出るなどというのは、誰も予想だにしなかったという事です。


これがアメリカでの出来事なら、「あぁ、またか…」とため息を漏らす所なんですけどね…。
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【news】レディー・ガガも女子校育ち! なめ子、来世ではニューヨーク進出も!?
2011-06-27 Mon 23:34
ディー・ガガも女子校育ち! なめ子、来世ではニューヨーク進出も!?
(WEB本の雑誌 6月24日(金)9時31分配信)

 最近「女子校育ち」というキーワードが話題になっている。発信源はコラムニストの辛酸なめ子さんが3月に上梓した同名の新書。自身も中高一貫の女子校に通った彼女が書いたのは、「女子校育ち」な人々に共通する特徴と、あまりに衝撃的な女子校の実情だ。

「例えば『桜蔭の子は妄想がすごい。まじめな子ほどオナニーとかしてそう』と出身者が教えてくれましたし、超お嬢様学校として知られる田園調布雙葉でも、フランス書院文庫やエロマンガの貸し借りが盛んに行われていたそうです。他の女子校出身者に聞いても、口にするのがはばかられるほどの下ネタや妄想ネタが後を断たないんです」

「女子校」という言葉にまつわる「清楚」で「マジメ」な"秘密の花園"というイメージこそが妄想であり、そこに囚われるほど実態とかけ離れてしまうというのだ。

「ミッション系の学校の出身者には、『毎日の礼拝時に聖書のなかのいやらしい単語――「割礼」、「姦淫」、「肉欲」などを探す』という人もいましたし、他にも教室でマイルーラを溶かす実験をしたり、なかには授業中に放尿......」

 えっ......。

「わ、私の話で言えば、家には『友達の家で勉強会』と言い残して、学校の用具入れに潜んで学校に泊まったり、学校の冷水器に勝手に茶葉を入れて水出し茶を作ろうとしてみたり。もっとも、その後に故障したのか業者が修理に来ていましたが......」

 若干極端な例のような気もしないでもないが、『女子校育ち』の実態は、「女子校」のイメージと乖離しているのは間違いなさそうだ。

「レディー・ガガ、オノ・ヨーコ、YOU、松任谷由実......。みな、女子校出身者だと思うと何か通じるものがあるような......。女子力をストレートに押し出しすぎず、同性に対してフレンドリー。計算もできるんですが、どこか天然っぽいというか、周囲から理解されづらい行動を取ってしまうという特性がある気がします。私も女性として見られることへの羞恥心があって、ついつい初対面の相手を前に下ネタを連発してしまうことが......」

 もし生まれ変わってもまた女子校に通いたいですか?

「はい。ニューヨークのアッパーイーストサイドの女子校に通いたいです。The Spence School(スペンス校)というグウィネス・パルトローの出身校に入って、学園の女王みたいな人の取り巻きになりたいんです! なぜ取り巻きかって? トップにいて下克上が起きたら学園で生きていけなくなりますから(笑)」

 執筆中にOGを対象に行ったアンケートでも生まれ変わっても女子校に行きたい、という声が多かったという。


しんさん・なめこ●1974年東京都千代田区生まれ、埼玉育ちの漫画家・コラムニスト。女子校からセレブまで、女性の持つ"業"を探求し続けている。近著に『女子校育ち』(ちくまプリマー新書)、『無銭ひとり散歩』(コアマガジン)、『開運するためならなんだってします!』 (講談社プラスアルファ文庫)など






『毎日の礼拝時に聖書のなかのいやらしい単語――「割礼」、「姦淫」、「肉欲」などを探す…』


あー、あるあ…。

いや、そりゃさすがにねーだろー…(笑)


いやでも…、みんな性欲の強い時期でもあるしな。
やっぱあるのかなー…、そういうことも。


でもさ…、実際、聖書なんかで興奮できるのか…?(笑)


男子が多感な時期に、辞書のえっちぃ単語を調べて、その説明文に赤ペンでチェックするとかいうのは、まあよく聞く話ではあるけど…。

聖書のやらしい単語にときめいちゃうのも、それに似たようなもんなのか…?

ミッション系女子校の場合、聖書もえっちぃ本に早代わりかー…。


なんというか…。

その凄まじいまでの妄想力脱帽です…。


男も女も、思春期は考えてる事なんてみんな一緒ね… (///∇///)イヤーン
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【news】サッカー=イランがFIFAに抗議へ、女子チームの服装問題で
2011-06-06 Mon 22:04
ッカー=イランがFIFAに抗議へ、女子チームの服装問題で
(ロイター 6月6日(月)12時23分配信)

 [テヘラン 5日 ロイター] イランサッカー協会が、2012年ロンドン五輪予選の試合で、サッカー女子の同国代表チームが服装を理由に出場禁止処分となったことをめぐり、国際サッカー連盟(FIFA)に抗議する意向であることが分かった。イラン学生通信(ISNA)が5日伝えた。

 イランは3日にヨルダンと対戦する予定だったが、試合前に出場が禁止となり、ヨルダンに3─0の勝利が与えられた。

 FIFAは昨年4月にも、頭を覆う布の着用は競技規則に反するとしてイランを出場禁止処分にするなど、イランの女子選手の服装をめぐる論争は1年以上続いている。イランでは宗教上の理由から、女性が公共の場で髪を出すことが禁じられている。

 イランサッカー協会の会長は、FIFAとの協議の結果、妥協案で合意していたとして、今回の処分は理解できないと述べている。






スラームでは、女性は髪の毛を男性に見せないようにと教えられているんですね。イランでは、公共の場ではスカーフやブルカの着用が義務づけられています。

イスラームでは、「女性は肌や髪を露出させて、いたずらに男性を興奮させてはならない」という教えがあるからなんです。

これが今回、「政治的、宗教的、個人的主張を示してはいけない」というFIFAの規程に触れたということらしいです。


これは…、本当に難しい問題だと思います。
どう解決するのが一番良いのか…、悩むところですね。

イランの同国女子代表チームが、FIFAの規定に則るか…。
でもそうなると、仮にチームメンバーが納得してもイラン国内では大激論になっちゃいます…。

じゃあ、イスラームの教えを守るために出場を断念するかといえば。
それじゃもう、本末転倒ですよね…。

記事中の「FIFAとの協議の結果、妥協案で合意していた」という部分ですけど。
去年の5月はじめに、FIFAが「スカーフじゃなくて帽子ならOK」と妥協して決着がついていたという。その事を指しているようです。

スカーフはダメで帽子はOKというのは…、どうしてなんでしょう?
自分はサッカーにそこまで詳しくはないので、理由がはっきりとは分からないんですが。たぶん…、顔の判別がつきにくくなってしまうのを禁止しているという事なんでしょうか?

いや、それにしても。
妥協案が決まっていたのに、どうして処分対象になってしまったんでしょうね…。その事に関してこのチームに同情してしまいます…。

ただ、きちんと理由あってのFIFA規則でしょうから、やはりイランにだけ特例を認めるのもやはり難しいのかもしれませんね…。でも、だったらFIFAは最初から妥協案なんて示さなければよかったのにー…。とも思ってしまったり…。


宗教による規則というのは世界中に色々ありますけど。

でも、その規則を頑なに守ることが、宗教にとって大事な事なのではなくて。
自分が思うに、その宗教上の規則は「どうして」存在するのか、と考えて行動するのが本当に大事な事なのではないかと思うんです。

根っこを忘れ去られてただ表面上を撫でただけの規則なんて、人を縛り付けるだけで、息苦しいだけのまったく意味の無い代物です。

その事も踏まえて、本当にチーム出場にスカーフは必要なのか、否か。

イランサッカー協会、そして国民の皆さんにはしっかり議論してもらいたいですね。


ところで…。
じつは、イランでは女性のサッカー観戦も禁止されているんです。

映画監督・バナーヒ氏(昨年3月に逮捕されてしまいました…)の代表作「オフサイド・ガールズ」は、サッカー観戦を許されない女の子が、男の子に扮してワールドカップ予選会場に入ろうと奮闘するドキュメンタリー映画です。

面白おかしく描かれながらも、色々考えさせられる。
これもとても興味深い内容の映画ですので、皆さんもぜひ一度ご覧になると良いと思いますよ。
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【news】天国は「おとぎ話」にすぎない ホーキング博士が語る
2011-05-19 Thu 04:50
国は「おとぎ話」にすぎない ホーキング博士が語る
(CNN.co.jp 5月18日(水)12時12分配信)

英物理学者、スティーブン・ホーキング博士(69)が英紙ガーディアンとのインタビューで、天国や死後の世界は実在せず、「おとぎ話」にすぎないとの主張を展開した。

15日付の同紙によると、ホーキング氏は人間の脳を「部品が故障すれば機能が止まるコンピューター」と考えていると述べた。そのうえで、「壊れたコンピューターには天国も死後の世界もない。それは暗闇を恐れる人々のためのおとぎ話だ」と主張している。

同氏はまた、21歳で筋萎縮(いしゅく)性側索硬化症(ALS)と診断された自身の死について「私は過去49年間、早死にすると言われながら生きてきた」「死を恐れてはいないが、急いで死ぬつもりもない。その前にやりたいことがたくさんある」と語った。

ホーキング氏は昨年9月に出版した著書「The Grand Design」で、宇宙は神が創造したのではなく、重力の存在によって「自然発生的」に生まれたとの見方を示していた。






スティーヴン・ウィリアム・ホーキング博士は、言わずと知れたイギリスの理論物理学者です。

『ホーキング放射』『ブラックホールの蒸発』など、ブラックホールに関する研究が特に有名ですね。

じつはSF(サイエンス・フィクション)が大好きで、実際にアメリカのSFドラマ「新スタートレック」に本人のホログラムイメージ役で出演しちゃった経験もあるんだとか!


今回、博士のこの発言が世界を駆け巡って、一部の宗教者(特にキリスト教徒)の中からは批判の声も寄せられているらしいんですけど…。

どうなんでしょうねー、…天国って本当にあるんでしょうか?
誰もが一度は考えた経験のある疑問かもしれませんよね。

一番手っ取り早い確認の仕方は、実際に天国に辿り着けるかどうか「試してみる」っていう方法なんでしょうけど。
…さすがに、そんな事試したがる人なんか居ないし。…というか、居てもらっちゃ困るし。

仮に、人生を全うして天国に辿り着けた人が居たとしても。
その事を「この世」に伝える方法も無いだろうから…、自分達が知る事も出来ないでしょうしねー…。

これは、生きている人間には全く知りようのない事柄のはずです。

…でもそれなのに、多くの人間が漠然とそういった「天国」なる場所があって、そこには「神様」と呼ばれる存在があるはずと、心のどこかで信じてしまう。

…これって、どうしてなんでしょう?

それを突き詰めて考えると、じつは「宗教って一体何なんだろう?」という根本的な一つの疑問に要約されるのかもしれません。


社会学者の橋爪大三郎さんが、著書「世界がわかる宗教社会学(ちくま文庫)」の中で、「人間と宗教の関係」についてこんな分かりやすい例え話を語っていますので、引用してみます…。

 ある惑星に、知性のある生物が住んでいました。
 この生物は、知性があるから、脳もある。二本足で歩いて、手も頭も、男女の区別もある。結婚して子どもが生まれたり、年をとって死んだりしている。人間と似ている?でもよその惑星の、人間とは別の生物です。
 さて、この生物は、その知性を使って、なにを考えるだろう。
 生きるためには、食料が必要だ。そこで、この惑星の自然環境をかなりよく認識しているはずである。食べられる動物や植物はどこにあるか。水はどこにあるか。そういった沢山の、実用的な知識。
 そのほかに必要となるのは、この生物の群れの掟や、親子親戚関係、先祖についての知識であろう。やっていいこと、いけないこと。他の群れについての情報や、いろいろな言い伝えについても知っているに違いない。
 これだけのことを知っていれば、さしあたり生きてはいける。
 けれども、彼(彼女)が知的な生物なら、これ以外のことも、きっと考えてしまうはずである。たとえば、自分はやがて死ぬだろう。そしてこの世界から、いなくなってしまうだろう。自分はどこから来たのか。そしてどこへ行くのか。自分はなんのために生まれてきたのか。この世界は、いったいどうして存在するようになったのか。などなど。
 こうした疑問は、考えなくても生きてゆける。そして昼間、皆といるあいだは忘れていられる。でも誰もが、ふとした折に、必ず考えてしまう疑問である。知性のある生物なら、きっとそうだろう。

 知性は、やがて滅んでしまう自分とはなんだろうと考える。
 けれども、この問いには答えられない。死んでしまった知性に、死んだらどうなりましたかと聞くわけにはいかない。死んだ知性は、知性としては存在しなくなっているからだ。死は知性にとって究極の、最後の、未知の世界である。
 自分の知ることのできないことを知ろうとすること。これが、知性の知性たるゆえんである。

 考えきれないことを、さらに考えようとする。それには、工夫が必要である。
 たとえば、この世界が、ある偉大な知性の手で設計され、製造されたと考えてみる。

 この偉大な知性を、神(God)とよぶことにする。すると、一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)である。

 またたとえば、この世界が、永劫の昔から究極の法則に従って運動していると考えてみる。

 この究極の法則を、法(ダルマ)とよんでみる。また、最高の知性を、仏(ブッダ)とよんでみる。すると、仏教である。

 またたとえば、この世界は、過去を単に再生産しているのだと考えてみる。過去を忠実にたどることが、人間にとって最高のあり方である。知性は、過去がどのようであったかを、よりよく理解しなければならない。

 この知性を、聖人とよんでみる。すると、儒教である。

 いくつかの例をあげた。これらは、知性をもって生まれた人間が、考えられることの限界に挑戦する、いくつかの試みであり、工夫である。



この科学の時代に宗教なんて古臭い、とか。
宗教を信じるなんて知的ではない、とか。
宗教は困っている人の気休めか、人を騙す迷信だ、なんていう人たちもいますけどね…。

でもこの本では、しっかり「宗教は人間の“知性”が生み出した試みであり、工夫である」と述べています。

本当に、まさにそのとおりだと感じます。
人間には知性が備わっていたからこそ、世界にはさまざまな宗教が生まれたのです。


…そして結局。
天国は存在するのか、否か…?

ホーキング博士は、物理学者としての強い「思い」から、「それはおとぎ話だ」と断言してしまったようですが…。それはあくまで博士の個人的な、尊重すべき一つの意見に過ぎません。

しかし、本当にこの疑問に答えを用意するのだとしたら、それはきっと「分からない」というのが「科学的に」一番正しい答えなのかもしれませんけどね…。結局は。


でも人間にとっては、正直そんな事はあまり重要ではなかったんですね。

なぜなら、人間は「自分の知ることのできないことを知ろうとする」その長い長い歴史において、さまざまな「仮説(宗教)」を立て、それを原動力として文明を築いてきたという「事実」があるからです。

人間にとって、「天国や神は存在するかどうか」ではなくて、「天国や神は存在すると仮定する」事が、生きていく上では本当に重要なことだったわけですね。

それを、人間は「信仰」と呼びました。

そしてそれは、この現代社会においても、世界中の人々が生活を送る上で大変重要な意味を持っているのです…。


ところで…。

ホーキング博士とは逆に、「神がこの世界を作られたのは“事実”です!」とか叫んでる原理主義的な宗教者もたまに居ますが…。それもやっぱりその人の個人的な、一つの意見に過ぎませんね。

あくまで「科学的な」結論を求めるなら、その答えは常に「分からない」というのが、今のところ誰の目にも一番しっくりくるように思えます。


そういえば。
「宗教と科学」についても、話したい事が色々あるんですよね…。それは、また機会を作ってお話しますね…。
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【news】私も「なぜ」と自問…震災体験少女にローマ法王
2011-04-23 Sat 18:27
も「なぜ」と自問…震災体験少女にローマ法王
(読売新聞 4月22日(金)22時21分配信)

 【ローマ=末続哲也】ローマ法王ベネディクト16世が、22日放映のイタリア国営テレビRAIのカトリック教徒向け番組に出演し、東日本大震災を体験した7歳の日本人少女からの「なぜ子供も、こんなに悲しい思いをしないといけないのですか」という質問に答えた。

 RAIなどによると、法王がテレビで一般視聴者の質問に答えるのは初の試み。質問者は約3000人の応募から選ばれた7人で、うち1人がイタリア人の父、日本人の母を持つ千葉市の少女(7)となった。少女は自宅近くが液状化の被害を受けた。

 少女は「私は今、とても怖いです。大丈夫だと思っていた私の家がとても揺れたり、私と同じ年ぐらいの子供がたくさん死んだり、公園に遊びに行けないからです。なんでこんなに悲しいことにならないといけないのですか」と、ビデオ映像を通じて日本語で質問した。

 これに対し、法王は「私も同じように『なぜ』と自問しています。答えは見つかりませんが、神はあなたとともにあります。この痛みは無意味ではありません。私たちは苦しんでいる日本の子供たちとともにあります。ともに祈りましょう」などと答えた。






東日本大震災をもたらしたあの大地震から、早一ヶ月半が経ちました。

自分の住んでいる宮城県名取市周辺でも沢山の人が亡くなり、しかも未だに行方不明の人々も相当数います。大きな余震は収まらず、みんな不安で眠れない日々が続いています。

自分も無気力になってしまって、このブログを更新することもすっかり忘れてしまってたんですが。
今回のこの記事を読んで色々と思う事があったので、また発言させてもらいますね。


■神様が本当に居るのなら…、なぜ。

「(この地震によって)なぜ、こんなに悲しい思いをしないといけないのですか」という少女の質問に対しての法王の答えは、「私も同じように自問しています、答えは見つかりません」というものでした。

「カトリックの頂点に立つローマ法王でさえも答えられないなんて、そんな事が有り得るの!?」…って、そう思いますか?
これは、キリスト教の神学では「神義論(しんぎろん)」と呼ばれます。「神様は本当に正しいのか?」という、いわば神様にケンカを売るような問題なんですが。これは、太古の昔から現在に至るまでずっとずっと人類が議論して悩み続けてきたにも関わらず、今現在でも全く答えの出せない重要で深刻な問題なんです。

神様が本当に居るというのなら、どうして私たちをこの苦しみから救ってくれないのか。
ローマ法王と言えども、この少女の純粋な質問に明確な答えを示すことは出来ませんでした…。


■神様の言うとおり…?

キリスト教徒だろうとなかろうと、人間は色んな場面で「神頼み」をするものです。人間として出来る努力は惜しまず行なったけれども、人間にはどうしようも出来ない最後の一押しは神様にお願いする事があります。例えば「運」や「天候」、そして「厄災」なんかがその典型ですけど。そうして事態が好転すれば「有難うございます!」と神様に感謝するし、逆に事態が悪くなれば「神なんか居るワケがない!」と呪いの言葉を吐く。…まあなんて言うか、人間なんて勝手な生き物ですよね。

でもそもそも、「神様はこの人間の世界の事象を、本当に『全て』操っているんだろうか…?」という疑問が、自分には昔からあります。本当に全ての出来事を神様が操っているんだとすれば、楽しみにしていたイベントの日がいつも雨になるのも、ジャンケンで負けて嫌な仕事ばかり押し付けられるのも、髪の毛が赤くてクラスのみんなにイジメられるのも。みんな、全て「神様の自らの意思」でイジワルしたって事になっちゃいます。そしてついに、その考え方の延長には「津波で人が亡くなったのは神の意思である」という結論が待っていますし、その対偶として「津波からまぬがれて人が生き延びたのも神の意思である」という事になっちゃう…。神様が、自らの気分一つで「生き残るべき人、亡くなるべき人」を操っているだなんて、自分にはやっぱり奇妙に思えてきます

そんな独裁的で自分勝手な神なら、誰も信じようだなんて思えないでしょうね。


■自分勝手な、人間

ですから、やっぱり「この世の中で起こる全ての事象を、神様が何から何まで全て操っている」と考えるのはちょっとおかしな事かもしれませんね。まあこんな事を言うと、一部の保守的なクリスチャンや教派からは怒られてしまうんですが…。構いません、自分はそう思ってるんだから仕方ない。

人間というのは不思議なもので、物事の受け止め方には必ずその人の主観が入ります。楽しみにしていたイベントの日が雨になれば、その人は「神様のバカ…」と思うけれど。でもその一方で、そのイベントを気だるく思っていた人がいれば、その人はきっと「神様ありがとう」と思っているでしょう。そして、この二人の願いを神様が同時に聞き入れる事など出来ないはずです。それなのに人間は都合良くその責任を神様に押し付け、自分にとって喜ばしければ「神様の恵みだ!」と喜び、自分にとって悲しい事であれば「神様は私を見捨てた…」と口にしてしまう。
本当に自分勝手なのは神様ではなく、自分たち人間なのかもしれませんね。

だから、神様はこの世界の全てを常に隅々まで知ってはいるのだろうけれども、しかしこの世界の全ての事象に関わっているわけではないと考えるなら。悲しい出来事が起こったとき、神様にその責任を理不尽に押し付けるという事も無くなるんじゃないかと思うんです。

津波に巻き込まれて亡くなった人、間一髪で逃げ切った人、この違いは偶然の結果起きた事です。誰を恨むわけでもなく、誰を擁護するわけでもない。亡くなった人は神様に見捨てられたのではないし、生き残った人は神様に愛されたからでもない。ちょっとタイミングが違えば自分も死んでいたかもしれない。だからこそ、今生きている人達はみんなその事を謙虚に受け止めなければいけないと思うんです。

でも…。
神様は亡くなった方達の事を一人一人しっかり覚え、一人一人に涙を流し、一人一人に慰めの言葉を掛けてくれていると自分は信じたいんです。


■意味を見出すために…

じゃあ、今回亡くなった人々の死はあくまで偶然に過ぎず、それは全く意味の無い死だったのか…。

それは、生き残った自分たちに懸かっているんだろうと強く思います。

今回の震災を通して多くの人々が教訓を得ました。この教訓を未来に活かしてこそ、犠牲となられた人々に初めて意味が見出されるのではないかと思います。この教訓を活かさずまた同じ悲劇を繰り返すなら、それこそ彼らの死から意味を取り上げる事に他ならないのではないでしょうか。

…だけど。
だからと言って、遺族の方々の目の前で「彼らの死には意味があります、私たちが教訓を得られたからです」…と言う人がいるとすれば、そんな馬鹿げた話しもありません。そんな事を言った所で、今の遺族の方々には何の慰めにもならないのは明白ですよね…。

どうして、自分たちは今こんなに苦しんでいるんだろう。
この疑問に意味を見出して答えを得られるようになるまでには、本当に途方もない年月が必要になるのかもしれない…。苦しんだことによってしか得られない物があるのは事実です。だけれど、それは当事者自身が長い年月を経て苦しみ続けた末に自ら見出す物であって。他人から意味を付与される物ではないのです…。


■神のみぞ知る世界

これら以外にも、今回の震災では色々と考えさせられる宗教的、哲学的なテーマが沢山ありました。
この一ヶ月半というものずっとキリスト教側の人間として自問自答を繰り返し、時には答えが出ずにうなされるという事もありました…。
その中の一つがこの問題だったんですが。この少女の質問をきっかけに、今回自分なりの答えを「とりあえず」記してみる事にしました。

ただ最初にも言ったように、この問題については太古の昔から現在に至るまで、人類が全く答えの出せない難しい問題なんです。『神の存在証明』と同じくらい議論になっちゃうんです。

「神様が本当に居るのなら、なぜこんなに悲しい思いをしないといけないのですか」というこの質問に対して、三者三様様々な答えがあります。中には「本当は神など存在しないのだから、この悲しみも人間自身が生み出した物に過ぎない」という考えの人もいるし、実際その可能性も否定できません。

自分は、あくまで「神様は存在する」という前提のもとで話しをさせてもらいました。


はたして、皆さんはどう考えたでしょうか?

あなたならこの少女にどんな答えを用意しますか…?
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【news】チベット仏教の聖地に「聖書の杭」打ち込む、韓国キリスト教徒に非難殺到
2011-02-24 Thu 23:49
ベット仏教の聖地に「聖書の杭」打ち込む、韓国キリスト教徒に非難殺到
(サーチナ 2月24日(木)12時28分配信)

 韓国のキリスト教徒たちがチベットの仏教聖地に、聖書の内容が書かれた杭(くい)を打ち込んだという主張がインターネット上で広がっており、話題となっている。あるネットユーザーが自身のブログで写真とともに明かした。

 同ネットユーザーによると、中国甘粛省の夏河県にある「拉卜楞寺(ラプラン寺)」を訪れた際、男性1人と女性2人の韓国人一行に出会ったという。寺院で五体投地をするチベットの巡礼者たちを見た韓国人男性は、「お~主よ~」と叫びながらカバンから聖書の文句が書かれている杭を取り出した。

 そして、「チベット人が直接打つと、チベット仏教の力がさらに強くなる」と述べ、同行のチベット族のガイドに杭を打ち込むよう説得。この話をすっかり信じたガイドは、杭を打ち込みはじめた。韓国人男性はさらに、ガイドに向けて「早くしろ!」と韓国語で悪口も口にしたという。

 ネットユーザーは、「日本植民地時代に日本がわが国の精気を絶ち切るため、山脈に鉄心を打ち込んだという話は聞いたことはあるが、宣教を理由として杭を打ち込むという話ははじめて聞いた」とし、「仏教の聖地に聖書の内容が書かれた杭を打ち込むとはあり得ない」と怒りを語った。

 同件は韓国のインターネット上で急速に広がり、波紋を起こしている。「これらは韓国とキリスト教の恥だ」、「このような蛮行(ばんこう)のせいで、ほかのキリスト教徒たちも非難をうけている」などの批判が殺到した。

 夏河は、中国甘粛省の甘南チベット族自治州に位置する県で、人口の78%がチベット族で、「第2のチベット」、「東方のバチカン」などと呼ばれている。「拉卜楞寺」は、1982年に「全国重点文物保護単位」に指定されたチベットの聖地だ。(編集担当:永井武)






つい先日ウチの教会の牧師先生と、韓国でキリスト教のカルト化が進んでいるという問題について話をしていたばっかりで。

ちょうどそこに、いいタイミングでこのニュースが入ってきたようですー…。


韓国の人口は約4,833万人。そのうちの約26%、約1,376万人がキリスト教徒といわれています。
次いで多いのが儒教・無宗教(49%)、そして仏教(23%)です。無宗教を除けば、韓国ではキリスト教が最大勢力の宗教という事になります。

韓国のキリスト教は今から220年ほど前に伝わっているけど、1882年にアメリカと通商条約を結んだ後に広く伝播したといわれています。


韓国キリスト教の特徴としては、海外への宣教活動が活発な事が挙げられます。2000年にはプロテスタントだけでも、1万人以上の宣教師が全世界で活動していたという報告もあるんです。…すごいよね。

ただ、韓国人はとても熱い人が多いというか。情熱的になり過ぎちゃうんでしょうか…。
一部には非常に過激で積極的な布教活動をするため、近年では世界各地(特にイスラム教圏)で色々なトラブルが起きてしまっているようなんです。

たとえば、韓国のキリスト者がアフガニスタンのモスク(イスラム教礼拝堂)の前で、キリスト教の賛美歌を歌って問題になった事件もありました。
また、2007年にはタリバーンが韓国人を拉致するという事件があったけれど、これもやっぱりその背景には過激な布教活動があったのではないかと指摘されているようです。


言うまでもない事だけど、他の宗教や文化を否定したり破壊してまで布教するなんていうのは本当に馬鹿げた事です。

キリスト教は現在、世界で一番信仰者の多い宗教だけれど。それは商人や宗教者によって各地に伝えられただけではなくて、植民や戦争によっても広まっていったという黒い歴史も関係しています。キリスト教が世界各地で信仰されているのは、ヨーロッパ各国による植民地支配と、植民地における布教活動の結果でもあるわけですね。

じゃあ、その結果植民地支配された国々はどうなったかと言えば、文化的な抹消行為(文化的ジェノサイド)が行なわれていきました。それまでその国で培われてきた文化が破壊されるという悲劇が起きたんです。

たとえばハワイ諸島ではその昔、戦闘的なキリスト教会が富そのものを略奪し、原住民の絶滅(ジェノサイド)にも成功したとされています。

でも、これらは、本当にイエスが望む事なんでしょうか…?
今ここにイエスが居たとして、それを見て微笑むだろうか…?
そんなワケありませんよね、当然です。イエスなら微笑むどころか、怒鳴りつけると思うよ。

そうやってキリスト教徒が増えたからといって、神様や宣教者にとってそれがなんの喜びにつながるのか。
喜ぶどころか、それはキリスト教にとって黒い歴史、汚点にしかならないでしょう。


…それにしても。
「聖書の文句が書かれた杭を打ち込ませる」って、一体どういう意味があるんだろう?
ちょっと意味が理解出来ません。

でも一つ良かったのは、「これらは韓国とキリスト教の恥だ」と、韓国国内でもこれを良く思わない人たちも沢山いるという事が分かった事ですね。


…本当に、こういった事件を減らすには一体どうすればいいんでしょうね。
…難しいですね。
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【news】調査捕鯨、初の中止 シー・シェパード妨害激化
2011-02-19 Sat 20:46
調査捕鯨、初の中止 シー・シェパード妨害激化
(産経新聞 2月19日(土)7時57分配信)

 米国の反捕鯨団体「シー・シェパード(以下SS)」が日本の南極海での調査捕鯨に対し妨害を続けている問題で、農林水産省は18日、今期の調査中止を決め、船団に帰国を指示した。閣議後会見で鹿野道彦農水相が明らかにした。SSの妨害は平成17年から続いているが、調査捕鯨の中止は初めて。

 枝野幸男官房長官は記者会見で「大変残念だが、乗組員の安全確保の観点から判断した。遺憾を超えて怒りを禁じ得ない」と述べた。前原誠司外相も記者会見で「公海上で合法的な調査活動を行っているわが国の乗組員の生命、財産、船舶の航行の安全を脅かす危険な不法行為で、断じて許されない」とSSを厳しく批判した。

 伴野豊外務副大臣はSSの旗国、寄港国であるオランダ、オーストラリア、ニュージーランドの各在京大使を外務省に呼び、遺憾の意を伝えた。

 南極海での調査捕鯨は例年秋に出港し翌年春にかけて実施。今期は昨年12月2日に出港、クジラを持ち帰る船団の母船「日新丸」など4隻、乗員合計184人で調査を続けていた。ミンククジラなど計約900頭を捕獲する予定だったが、過去最低の172頭にとどまった。

 水産庁によると、今期の妨害は1月1日に始まり今月9日には、抗議船「ゴジラ号」が日新丸に発煙筒や発火した落下傘信号弾などを投げつけ、甲板の一部が焼けるなど被害が出た。妨害は11日までに9回あり、1回の妨害が7~8時間に及ぶこともあった。

 調査捕鯨は国際条約で認められているが、SSは年々攻撃をエスカレートさせている。

 枝野官房長官は会見で、来期以降も南極海での調査捕鯨を継続する考えを示した上で、「妨害を排除するために取れる方法を検討したい」と述べた。






シー・シェパード の妨害行為によって、日本の調査捕鯨が初めて中止に追い込まれてしまいました。
暴力的な手段によってこんな結果になってしまったのは、本当に残念な事ですね…。


シー・シェパード(Sea Shepherd Conservation Society) は、みんな知ってのとおりアメリカ合衆国ワシントン州フライデーハーバーに本部を置く、エコテロリスト団体のひとつですけど。

この「シー・シェパード」ってどういう意味か知っていますか?

日本人にはちょっとピンとはこないかもしれないけど、キリスト教圏の国の人々はすぐにその意味合いをイメージ出来ます。

シー・シェパード を日本語に直訳すれば「海のシェパード」。
シェパードというのは犬種ですけど、とても利口で忠誠心と服従心に富む性格から、例えばジャーマン・シェパードなどは今では警察犬や介助犬として広く活躍しています。それに加えて、昔から牧羊犬としても活躍してきました。

牧羊犬は、牧場で放牧している羊の群れの誘導や見張り、さらに悪意のある人間やオオカミなどから羊を守るように訓練された作業犬です。羊飼いの良きパートナーとなって働くわけです。

ところで聖書では、イエス・キリストの事をこの羊飼いにたとえて話される場面があります。

100頭の羊が放牧されている牧場、その中の迷える一頭の子羊が群れをはぐれて遠く迷子になってしまう。そんな時、イエスは安全な場所にいる99頭の羊を置き去りにしてでも、そのはぐれた一頭のために命がけで探し出して安全な群れに戻してくれる。イエスはそんな良い羊飼いであるというたとえ話なんです。

シェパード → 牧羊犬 → 羊飼い → イエス・キリスト → 救世主

だから、シー・シェパード は自分たちの事を「海の救世主」であると名乗っているワケです。


…でも。
「環境保護の救世主」を自称しておきながら、自分らの目的達成のために捕鯨船に向けて発砲したり、爆薬を仕掛けたり、船を衝突させてみたり。その手段を選ばない不法な暴力手段には本当に憤りを感じます。


でも、それと同時にこの捕鯨問題を通して考えさせられる事も多いですよね。

本当の環境保護って何なんだろうとか、世界には多様な食文化があるんだという事や、捕鯨問題をめぐる各国の様々な裏事情などなど…。

自分なりの意見もあるけれど、このブログのテーマとは外れてしまうので今回あえてここでは述べません。

でも、この問題についてみんながもっと知る事は必要かもしれませんね。
これからもこのニュースに注目して、そして考えていきましょうね。
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【news】ロシア西部の州当局、バレンタインデー自粛を通達
2011-02-09 Wed 19:16
シア西部の州当局、バレンタインデー自粛を通達
(ロイター 2月9日(水)13時56分配信)

[モスクワ 8日 ロイター] ロシア西部のベルゴロド州当局は、学校や公共機関に対し、バレンタインデーを祝うことを控えるよう通達を出した。

 地元メディアによると、この通達は同州の教育機関や文化センターでバレンタインやハロウィンのイベントを「心の安全を守るため」に禁止しようと呼び掛ける動きの一環だという。

 通達文書は副知事の署名付きで、同州のロシア正教会の主教からも良いと認められたものだとロシア通信(RIA)は伝えている。

 また、州内のナイトクラブなどにも、14日に特別なイベントを実施しないよう指示が出されているという。






ロシアで、リアル版「バレンタイン中止のお知らせ」が通達された模様です…Σ( ̄□ ̄;)/。

バレンタインデー(St.Valentine's Day) はもともと、聖ヴァレンティヌス というキリスト教司祭に由来する記念日であるとされています。ヴァレンティヌスさんは、269年にローマ皇帝の迫害の下で殉教したと言い伝えられています。その殉教した日が、2月14日です。

当時のローマ帝国皇帝 クラウディウス2世 は、恋人を故郷に残したままでは兵士の士気が下がってしまうという理由で、ローマでの兵士の婚姻を禁止してしまいました。ところが、それを可愛そうに思ったキリスト教司祭・ヴァレンティヌスは、秘密裏に兵士とその相手とを結婚させていたんです。しかしついにその行いは見つかってしまい、捕らえられ、ヴァレンティヌスは処刑されてしまいます。

処刑されたのは、当時行なわれていたユノと呼ばれる女神のお祭り「ルペルカリア祭」の前日、2月14日。つまり、ヴァレンティヌスはルペルカリア祭に捧げる生贄とされたんです。

しかし、それ以来キリスト教徒にとってもこの日は祭日となり、のちに恋人たちの日となりました。


ただ、これはあくまで一般論として伝わっているお話しで。史実とは合致しない部分もあるようなんです。

初期のローマ教会は、ルペルカリア祭などに代表される異教のお祭りを排除しようと悪戦苦闘していました。でも、このユノという女神を祀るルペルカリア祭は伝統もあって、民衆にも広く浸透していたために、ただ禁止しても反発を招くだけだったんですね。排除せず、このまま祭りを存続させるとするなら、何かキリスト教に由来する理由をつける必要がありました。

そこで当時囁かれていた「逸話」である、兵士の結婚のために殉教したとされるヴァレンティヌス司祭を利用しようと考えたみたいです。

こうして、もともとはユノを祀るお祭りだったルペルカリア祭は、ヴァレンティヌス由来の恋人たちのお祭りへと解釈を変えて存続し現在に至る。どうやら、これが史実に近いようです。

クリスマスも、もとはキリスト教とは違う冬至を祝うお祭りで。キリスト教を広めるために、キリストの降誕を祝う日と解釈して定着していったという歴史があるので。このバレンタインデーも経緯としては似ているかもしれません。

ヴァレンティヌスの話しは逸話とされていて、本当にあったお話しかどうかは未だに謎なんです、じつは。ヴァレンティヌスに関する伝説は複数あり、彼の亡くなったとされる年も記録によってはバラバラだったりします。

そのため現在、カトリック教会ではこの2月14日のヴァレンティヌスの記念日は取り除かれています。今現在カトリック教会では、これを正式な祝日としては祝われてはいないんです。

まあ…、ローマ教会の勝手な都合で聖人とされて、ローマ教会の勝手な都合で祝日を取り除かれる。ヴァレンティヌスさんも災難だなー…、とは思います。


これらヴァレンティヌスにまつわる一連の伝承は、ローマを中心とするいわゆる「ローマ・カトリック教会」の広がる地域における伝承だったんですが。今回のニュース記事にもなっているロシアでは、それとはまた別の「東方正教会(ロシア正教会)」という宗派が一般的です。

東方正教会では、はじめからヴァレンティヌスさんの伝承とは何の縁もゆかりも無いんですね。


おそらく、今回のニュースの背景にはそこら辺の事情もちらほらと表れているのかなー…?と。

バレンタインだけでなくて、ハロウィンも禁止しようと呼びかけているらしいので。やっぱり、ローマ・カトリックに対して何かしらの対抗意識(?)があるのかもしれません…。

でも、「心の安全を守るために禁止」って…。やっぱりよく分からないですね(笑)
どういう事なんだろう…?


ところで。

いつだったか日本でも、国会で「特定菓子贈与禁止法(反バレンタインデー法)」なる法案が成立したっていう偽情報が流れましたねー…。


みんな卑屈にならないで、素直に楽しもうよ…、バレンタイン(笑)
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【news】オバマ米大統領、感謝祭控えて七面鳥に「恩赦」
2010-11-25 Thu 18:15
バマ米大統領、感謝祭控えて七面鳥に「恩赦」
(ロイター 11月25日(木)13時59分配信)

 [ワシントン 24日 ロイター] オバマ米大統領は感謝祭の祝日を翌日に控えた24日、食卓に上る運命にあった七面鳥に「恩赦」を与えるという恒例行事を行った。

 大統領は家族とともにホワイトハウスの庭で行われたイベントに出席し、2羽の七面鳥「アップル」と「サイダー」に対し、大統領恩赦を発令すると笑顔で宣言した。

 今月2日の中間選挙で民主党が大敗を喫したことを「ぶちのめされた」と表現していた大統領は、「この11月に少なくとも1つ、ぶちのめされることを阻止できて気分が良い」と述べた。

 今回恩赦を受けた2羽については調理を免れ、バージニア州にあるワシントン初代大統領宅で「余生」を過ごすという。






日本だと、ハロウィーンが終わるとクリスマスツリーが街中に現れて一気にクリスマスムードになっちゃいますよね?

でも、アメリカではそうなりません。

なぜなら、クリスマス前のもう一つの大きなイベント。「感謝祭(Thanksgiving Day)」があるからなんです。

日本のプロテスタントでは「収穫感謝日」とも呼びます。

感謝祭は、イギリスからアメリカに移住したピルグリムたちがアメリカでの初めての収穫を神様に感謝し、冬を越す知恵を授けてくれたネイティブアメリカンを招待して祝宴を催したことに由来するアメリカの祝日です。毎年11月の第4木曜日、だから今年は11月25日の今日行われます。

…ただ、これはアメリカ人の感謝祭に対するお決まりのイメージであって。ネイティブアメリカンの方々から言わせると、どうも話しが食い違っているようで。

現在のネイティブアメリカン達にとっての「感謝祭」とは、この日を境に先祖達の知識や土地がヨーロッパからの移民達に奪われ、キリスト教徒による「大量虐殺の始まりの日」と理解する史観もあるようです。

歴史の浅いアメリカにとって、約400年前に起源を持つ感謝祭はルーツを感じる歴史的記念日である事に変わりはないんですけど。そこには光だけでなく色々と黒い影も見え隠れしているようで、考えさせられる事も多いみたいです…。

でも、現在の感謝祭はそういった事を考える事も少なくなって単なる慣習行事となり、家族や友人が寄り集まっておなかいっぱいごちそうを食べたり、ショッピングを楽しんだりする日といった感じみたいです。

感謝祭の食べ物と言えば、角切りにしたパンの詰め物(「スタッフィング(stuffing)」または「ドレッシング(dressing)」と呼ばれる)をした七面鳥の丸焼きですね。

なんでも、2007年にアメリカで生産された七面鳥は約2億7千羽なんだそうです。単純計算すると、アメリカ人は一年間に1人1羽の七面鳥を食べる計算になります。

大統領に恩赦を与えられた(命を救われた)この二羽の七面鳥は、約2億7千羽の中から選ばれた幸運な鳥という事になりますね。


…だからこそ、感謝して、大事な命を頂きましょうね。
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【news】サグラダ大聖堂、着工から128年でバチカンが教会認定
2010-11-10 Wed 19:29
グラダ大聖堂、着工から128年でバチカンが教会認定
(ロイター 11月8日(月)13時21分配信)

[バルセロナ 7日 ロイター] ローマ法王ベネディクト16世は7日、訪問先のスペイン・バルセロナにある大聖堂サグラダ・ファミリアで初めてのミサを行った。

 このミサはバチカンがサグラダ・ファミリアを教会と認定する儀式で、スペインの建築家アントニオ・ガウディが設計した同施設は、着工から128年かけて正式に教会として認められた。

 スペインでは2005年に同性結婚が認められたことに加え、今年になって人工妊娠中絶の規制が緩和されており、同国とバチカンの関係は悪化状態にある。

 この日のミサで法王は、「人間の生命を否定するあらゆるものに反対し、家族制度において自然の秩序を推進するすべてのものを支持する」と述べたほか、「男女間の不変の愛が生命の本当のあり方」などと語り、中絶や同性愛を批判した。

 こうしたバチカンの姿勢に抗議しようと、大聖堂近くの沿道には同性愛者ら数百人が集まり、法王を乗せた車が通過するのに合わせて一斉にキスをするパフォーマンスを見せた。






サグラダ・ファミリア が、着工から128年かけて正式に教会として認められたそうです。

もうちょっと正確にいうと、サグラダ・ファミリア がカトリック教会のバシリカとして聖別されたというニュースなんですが。

「バシリカ」 とは本来、建築の平面形式のひとつを指すんですけど(バジリカ式、長堂式ともいう)。
ここでいう バシリカ は、ローマ教皇の発行した教皇小書簡によって、一般の教会堂よりも上位にあることを認められた教会堂のことなんだそうです。

ですから、今までも当然「教会」として認知はされていたんだけれども。今回、カトリックのローマ法王より正式に「お墨付き」をもらった…、といったところでしょうか?


…まあ、ここまでは別にいいんだけれどね。


そのあとの「中絶どーのこーの」「同性愛なんやかんや」っていう話しは、正直気分が悪いね(笑)

世間一般でささやかれる「キリスト教徒は同性愛者を嫌う」とか、「キリスト教徒は人工妊娠中絶を行なう医者を悪者扱いする」といった陰湿で偏ったイメージは、ほぼ全てこのオヤジの業績といっても過言じゃないのではなかろうか…?

もう、この手の話しを聞くとね、「…このオヤジ、またかよ(ため息)」としかなりません(笑)


カトリックの皆が皆、こんな考えだとは思わないでほしいですね…。

これはあくまで、「ローマ法王ベネディクト16世 というおじさん」の個人的な意見なんですから。
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【news】ガリレオは間違い!? 天動説を唱えるイベント開催
2010-10-03 Sun 20:15
リレオは間違い!? 天動説を唱えるイベント開催
(web R25 9月24日(金)10時5分配信)

21世紀に突入し10年が過ぎようとしている今、なぜだか大真面目に「天動説」を主張するイベントの開催が発表され、一部から注目を集めている。

11月6日に米インディアナ州で開催される予定の「Galileo Was Wrong: The Church Was Right」というこのイベント。同タイトルの書籍を著したロバート・サンジェニス氏とロバート・ベネット氏が中心人物となり、タイトルの通り17世紀に地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは間違いであり、聖書に反する地動説を支持するガリレオを「異端」として有罪判決を下したローマ教皇庁こそが正しいと主張するイベントである。

一般的には、1992年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が「ガリレオ裁判は誤りだった」
と認めたとされているが、サンジェニス氏とベネット氏は「公式に誤りだと認めてはいない」と主張、さらに「現代科学をもってしても地動説が正しいと証明することはできていない」とも主張している。

なんだか「ツッコミどころ満載」といった雰囲気のこのイベント。アメリカ内外の雑多なニュースを伝えるサイト「Boing Boing」でこのイベントが紹介されると、そのコメント欄には、

「こりゃすげえ、驚きのあまり10分間は口が開きっぱなしになっちゃったよ」
「てことは、NASAがやってるのは全部偶然の産物だったってことだね!」
「将来的に、地球を支えている巨大な象と巨大なカメを調査するカトリック系の動物学者が出てくるってことか」

など、皮肉まじりのコメントが多数寄せられていた。ちなみに、あるネットユーザーのコメントによると、「アメリカでは天動説を信じてる人がまだ何千万人もいるんだよなあ…」とのこと。まさかの天動説主張イベントもアメリカでは意外に盛り上がってしまうのかもしれない。






「驚きのあまり10分間は口が開きっぱなしに…」

自分も、この記事には本当に驚いたよ…(苦笑)


そもそもガリレオの生きた時代、「地動説は聖書に反している」と考えられていたのはどうしてだったんだろ?

当時のキリスト教を基盤とする中世ヨーロッパの哲学や思想においては、「神が地球を宇宙の中心に据えたのは、それが人間の住む特別の天体だからである。」「地球は宇宙の中心であるとともに、すべての天体の主人でもある。」「すべての天体は地球のしもべであり、主人に従う形で運動する。」…という考えが通説でした。

しかしそれは、宗教哲学的な要素も多分に含まれているとは言え、でも確かに観測によって導き出された当時の学者達の成果でもあったんです。じつは。
むしろ天動説は、当時においては観測事実との整合性においても地動説より優位に立っていたと言われています。たとえば、もし地動説が本当であれば、恒星には年周視差が観測されるはずです。でも、当時の技術ではそのようなものを観測する事が出来なかった為、地動説を推する学者たちは相当苦境に立たされたそうです。


聖書には、神様がこの地上を創造されたと書かれている。そして、観測結果も(当時においては)天動説との整合性がとれている…。
となれば、天動説と地動説、正しいと考えられるのはどっち…?

あなたが、当時の中世ヨーロッパに生きていたならどう考えたでしょうか?

…自分なら、やっぱり天動説を信じてしまったかもしれませんね。こんな状況なら、誰でもそう信じると思います。それは仕方がない。

でもその後、観測機器の発達にともなって様々な観測結果がもたらされ、一気に地動説が真実味を帯びていき、天動説は廃れていく事になるんですが…。


さて。
キリスト教では「この地上を創造したのは神様である」という事になっているんですが、それは具体的にどこに、そしてどんなふうに記述されているのかというと…。

旧約聖書、創世記・第1章にその次第が書かれています。

聖書の初っ端、聖書を初めて開いたらまずここから読む事になります。「光あれ」で始まる、いわゆる「天地創造」と呼ばれている有名な箇所ですね。

少し引用してみましょう…。

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第三の日である。

神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。
天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、
昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第四の日である。

神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
夕べがあり、朝があった。第五の日である。

神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。


このあと、神様は第七の日に仕事を休め、自分の創造したこの世界全体を眺めて喜んだと書かれています。


さて…、ここまで読まれて気づいた人もいるかと思いますが。
神様がこの宇宙や星々、地上や空や海、様々な動植物や人間を創造していく過程は確かに書かれてはいるんだけれども。

じつは、そのどこにも「この地上を宇宙の中心に据えた」といった内容の記述は見当たらないんですよね…。

つまり中世ヨーロッパの人たちは、「この地球を創造したのは神様である」とだけ書かれた聖書の記述を読んで、「神様が創ってくれたなら、当然ここが中心なんでしょ?」…と、ただの先入観で宇宙全体を捉えていたワケです。

そして、やっぱりその先入観にとらわれた学者達が、それに合致する観測結果だけを見て大喜びしていたというワケですね…。

滑稽といえばあまりにも滑稽だけれど、でもやっぱり気づけない、それが先入観というものなんでしょうね…。


それにしても…。
アメリカのキリスト教保守派のやる事は度肝を抜かれるようで、本当に毎回毎回スゴいなーと感心させられます…。

…色んな意味で。
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【news】ホワイトハウス近くで聖典破る=反イスラム行動相次ぐ―米
2010-09-12 Sun 23:07
ワイトハウス近くで聖典破る=反イスラム行動相次ぐ―米
(時事通信 9月12日(日)10時57分配信)

【ワシントン時事】米ホワイトハウス近くで11日、キリスト教徒を名乗る小集団がイスラム教を非難しながら聖典コーランを数ページ破る騒動があった。AFP通信が伝えた。同時テロから9年を迎えた同日、オバマ大統領は追悼式典で米国民に「寛容」を呼び掛けたが、反イスラム的な行動は止められなかった。
 米国では、ニューヨークのテロ現場近くで持ち上がったモスク(イスラム礼拝所)建設計画をめぐり、賛成派と反対派による非難合戦が過熱。また、フロリダ州の教会の牧師が一時、コーランの焼却を宣言するなど波紋が広がった。






先週、“9.11”に関連して、アメリカで反イスラム的な行動を起こす人々が急増しました。
連日ニュースなどでも取り上げられていましたね…。

記事にもあるように、フロリダ州の教会の牧師がコーラン(イスラム教における聖典)の焼却を宣言(しかし、後日これを撤回)するなどして、これにはついにオバマ大統領までもが声明を出し、「寛容を求める」など、大きな混乱があったみたいです。

でも実を言うと、このニュースに関して自分は少し安心もしました。

それは何故かと言えば。
ネットなどを見ても、この記事に関するみんなの意見がとっても冷静で、ちゃんと的を得ていたから。

たとえば、「テロを起こすイスラム教なんて怖い」だとか。あるいは、「キリスト教はやっぱり排他的で不寛容」だとか。そういった勘違いした意見がまた続出しちゃうのかな…?と、心配してたんですけど。

「一部の間違った過激派の行動だけを見て、それぞれの宗教全体を非難するのは間違いだ」など、大多数の人たちはしっかり広い視野で物事を捉えられている事が分かって、すごく安心したんですね。

…まさに、そのとおりだと思います。


アメリカは非常に保守的なキリスト教徒がとても多く、こういった宗教的な問題は他にも沢山あるんですが…。

「イスラム教の負の面 vs キリスト教の負の面」という対立が、ここアメリカで起こってしまうのも必然といえば必然なのかもしれませんね…。
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【news】刑場初公開 執行、脳裏から消えず 元検事
2010-08-28 Sat 20:16
場初公開 執行、脳裏から消えず 元検事
(8月27日13時8分配信 毎日新聞)

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↑報道機関に公開された東京拘置所の「刑場」の「ボタン室」から見た「執行室」(右奥)=2010年8月27日午前、東京都葛飾区(代表撮影)


 死刑執行の場となる東京拘置所の刑場が27日公開されたが、更生を期待されない死刑囚への刑執行はこれまでごく限られた関係者だけで行われ、その最期もベールに包まれたままだ。狭く、無機質な刑場で、死刑囚はその時をどんな心境で迎え、取り巻く人たちはどう見送るのか。「別れの朝」に立ち会った経験を持つ当事者が重い口を開いた。【石川淳一、反田昌平】

 死刑囚が目隠しをされ、両手を縛られる。キリスト教の教誨師(きょうかいし)は声を出し祈り続けた。隣接の執行室へのカーテンが開かれ、死刑囚が導かれる。カーテンが閉じると何秒もたたないうちに「ダン!」という踏み板が開く音が室内を包み、再び静寂が戻った。

 家族も面会に来ない死刑囚は数多い。心情の安定のため面会を許されるのが教誨師だ。月1度、拘置所の一室で向かい合う。大半は息詰まる生活から、ほんの一時解放されたようにしゃべり続ける。

 「その日」の連絡は突然来る。「明日空いていますか」。拘置所の連絡で執行を知る。朝、執行室隣の部屋。扉が開き、死刑囚が青白い顔で入ってくる。「今から執行する」。拘置所長が死刑を宣告した後、テーブルを挟み、ごく短い儀式が行われる。

 「償ってきます」と柔らかな笑顔を向ける人。「一足お先に待ってます」と言う人。大半は静かに受け入れた。教誨師はこれまでの面会に対し「ありがとね」と声を掛け、体に触れて肌のぬくもりを伝える。最期の瞬間を目にすることはない。

 多くの死刑囚に拘置所で洗礼を施す一方、犯した罪から目を背け死を急ぐ死刑囚も多かった。「自分が生きる意味を考えてみてくれ」と諭し続けた。執行から1時間後、納棺された死刑囚と対面した。「終わったね」と声を掛けた。

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 「納得して立ち会わないといけないと思ったから、判決文は熟読したよ」。08年に執行に立ち会った元検事はそう振り返る。

 執行2日前、次席検事に呼ばれた。「立ち会ってもらいたい」と告げられ、死刑囚の判決文を渡された。

 検察庁では年度初めに検事が抽選で「立ち会い順」を決めていた。その順が回ってきたのだ。「自分が起訴したり、判決を見た犯人ではない。納得して立ち会わないと」。判決文を読み「これなら仕方がない」と感じた。

 午前8時過ぎ、検事、拘置所長、医務官ら数人が立ち会い室で見守った。10メートルほど先に白いカーテンが引かれ、カーテン越しに、教誨師と向き合う死刑囚の横顔のシルエットが見えた。目隠しをされ、検事らの方に向き直った時、カーテンが外され、正面を向いた死刑囚と向き合った。誰も声を上げず、静かに進んだ。

 死刑囚の首に縄が掛かると、その瞬間、床がはずれて体が下へ落ちた。医務官が時間を告げ「執行」と言ってそばに寄り、指で腕の脈を診て聴診器で鼓動を聞く。「何時何分、死亡」。カーテンが開いて1、2分、あっという間の事だった。

 検察庁へ戻ると清めの塩がまかれた。次席らから「お疲れさま」とねぎらいの声がかけられた。

 元検事は「仕事だから特に思うことはない。ただ、執行の場面は今でも、まぶたに映像のようによみがえる」と話した。






教誨(きょうかい)というのは、矯正施設にいる受刑者の方々の道徳育成や精神的な救済を目的として行われる活動一般のことです。この教誨を行う人のことを教誨師(きょうかいし)といいます。

教誨には、道徳や倫理のお話などで、刑務官や法務教官などが行う「一般教誨」と。宗教的なお話や宗教行事で、各宗教団体に所属する宗教者(僧侶・神職・牧師・神父など)により行われる「宗教教誨」の二つがあるみたいです。

受刑者にとって一般教誨は強制参加ですが、宗教教誨は日本国憲法に定める信教の自由の観点から、参加は自由となっています。


死刑執行の場である、東京拘置所の刑場が27日に公開されました。

死刑制度は本当に必要なのか、必要じゃないのか…。

個人的な意見は一応あるんですけどね…。でも、既にあちこちで色々と議論されていることだし、ここでは敢えてその問題については触れません。


自分も初めて知ったんですけど、死刑囚の方がこの刑場に足を踏み入れると、まず最初に目に飛び込んでくるのは「仏壇」なんだそうです。死の間際、優しく微笑む仏様の顔を見て、死刑囚の方は何を思うんでしょうか…。

その後、希望者には教誨師との面会が許されます。

仏教の僧侶との面会を望む方が一番多いそうなんですが、教誨師の各宗教毎の割合は次いでキリスト教、神道の順に多いのだそうで。天理教など、新宗教諸派の教誨師もいらっしゃるようです。


「宗教」って、一体なんなんだろう?

「宗教」は、「心の弱い人」が「すがりつく」もの?
「宗教」は、人を「堕落」させたり「洗脳」したりする「恐ろしい」もの?
「宗教」でいう神様なんて、人間の想像上の産物であり「意味の無い」もの…?

でも、死刑囚の方々が死の直前に宗教者を通じて対面するのは、「仏様」であり、「ジーザス」であり、「八百万の神々」であったりするわけです…。そして、無宗教者として生活してきた多くの死刑囚でも、最期にそれを自ら望むといいます。


人間の「死生観」と「宗教」とは、やっぱり切っても切り離せない、人間が人間として成立する為の根本と密接に関わってるんじゃないのかな…、きっと。

自分達が普段何気なく生活している時には、それを意識するなんてことは少ないかもしれないけれど。ふと立ち止まって周りをゆっくり見回してみれば、その意味に気づくことが出来るかもしれません。


…それにしても。

このニュースは、「人が人を裁く」ことの難しさを改めて考えさせられます。

ネット上では「死刑制度賛成」という意見が大半らしいですね。
「残忍な罪を犯した人間は死刑になって当然、犠牲となった人とその遺族の気持ちを考えれば、受刑者はその死をもって償うべき」ということかもしれません…。その意見も一理あります。

でもそんな意見の持ち主でも、「じゃあ、その死刑執行ボタンをあなたが押してください」ともし言われたなら…。この責任の重さに耐えられるのかどうかはまた疑問です…。

だからこそ死刑執行ボタンは三つ用意されており、三人がそれぞれ同時にボタンを押して、刑を執行したのが誰なのかあやふやにするという形式が取られているわけなんですが…。

結局、「罪人には死を」という気持ちと、「でも、自分は手を下したくない」という気持ちの矛盾が、いわゆる人間らしさなのかもしれませんね…。
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【news】米、モスク建設賛成・反対両派が集会
2010-08-23 Mon 17:16
、モスク建設賛成・反対両派が集会
(8月23日13時21分配信 TBS)

 モスクの建設予定地前です。こちらで今、建設に反対する人たちによる集会が始まりました。

 「ここにモスクはいらない!今も、これからも!」

 建設反対派の集会は、テロで多くの仲間を亡くした元消防士らの団体などが主催し、400人以上の参加者が「イスラムの勝利を宣言するかのようなモスクはいらない」などと声を上げました。

 「息子が死んだ場所のそばにモスク建設なんて、道徳的に許せません」(建設反対派 テロ犠牲者の遺族)

 一方、すぐ近くの場所では、およそ200人の建設賛成派がデモを行い、「モスク反対はイスラム教に対する宗教差別だ」などと主張、キリスト教など他宗教の参加者の姿もありました。

 「どんな宗教でも、望む場所で祈りをささげる権利があると思います」(建設賛成派 近くに住むユダヤ教の女性)

 賛成派・反対派双方の集会が同時に行われるのは初めてでしたが、衝突などはありませんでした。

 最新の調査でニューヨーク市民の63%が「建設に反対」と答えている中、モスク建設を進めるイスラム教団体の幹部は、テレビ番組で改めて建設の意義を強調しました。

 「私たちは衝突を起こしたいのではない。架け橋になりたいのです。さまざまな考え方を議論し、寛容であることや互いを尊敬し合うことを学ぶ場所になると思います」(モスク建設を進めるイスラム教団体 デイジー・カーン氏)

 遺族に対する配慮と宗教の自由という、互いに繊細でかつ重要な問題をはらんでおり、モスク建設を巡る議論が収束に向かう気配は今のところ全くありません。






ニューヨークのグラウンド・ゼロ付近に、モスク(イスラム教の礼拝所)の建設が予定されているというニュースですけど。
これに関して、賛成派と反対派が互いに激しい議論を展開しているようです。

これに対して先日、オバマ大統領は賛成の意向を示しました。

それが影響したのか、それとも関係ないのか…。
アメリカ国民の半数以上は、「オバマ大統領はイスラム教徒である」と勘違いしているという統計結果も公表されましたね。

みなさんご存知のとおり、オバマ大統領はキリスト教徒です。

そのキリスト教徒であるオバマ大統領が、今回のモスク建設に賛成しているという事の意味を考えてほしいと思います。


前回のブログ記事とも内容が被るんですけど、そもそもイスラム教とキリスト教、さらにユダヤ教で信じられている神様というのは、じつは全く同じ神様なんですね。その神様をどんなふうに礼拝するのか…、その方法がそれぞれ違うだけなんです。

まずユダヤ教からキリスト教が派生し、後にイスラム教が派生しました。

だからユダヤ教、キリスト教、イスラム教、この三者で争うというのは、言ってみれば兄弟ゲンカなワケです。

モスク建設賛成の意向を示した大統領に対して、強く抗議したキリスト教団体がいくつもあるらしいけど、この点についてはもう少し頭を冷やして考えてほしいなと思います。


でも、その事とは別にもう一つ問題になってるようですね。

つまり、「テロを起こしたのはイスラム教、そのイスラムの勝利を宣言するかのようなモスクはいらない」」という主張ですが…。

たしかに、あの事件を引き起こした犯人達のボス、ウサマ・ビン・ラディンはイスラム教徒でしょうけど…。
ただし、彼の場合「原理主義」という但し書きが付きます。

普段、平凡な毎日を平和的に送っている普通のイスラム教徒と、原理主義的な過激なイスラム教徒を一緒くたに考えてしまったら、おかしな事になりませんか…?

このモスクに集うのは、ニューヨークに住んでいるごく一般的なイスラム教徒たちなんです。べつに、彼らがあの事件を引き起こしたわけではありませんよね?

だから、「あの事件を引き起こしたのはイスラム教徒だ → イスラム教徒はみんな嫌い → モスク建設反対!」という理屈ならば、それはあまりにも幼稚過ぎる言い分と言わざるを得ません…。


でも、そうは言っても…。
やっぱり遺族の方々の気持ちを考えれば、よりによってグラウンド・ゼロのすぐそばに…、というのは。このモスクやそこに通う人々に罪はないと頭では分かっていても、心ではなかなか整理がつけられないという事もあるのかもしれませんね…。

記事の最後にもあるように、非常に繊細でかつ重要な問題をはらんでいるというわけですね…。


自分の提案なんですけど…。

それであれば、ここにモスクだけでなくて、キリスト教の教会も一緒に並べて建設するというのはどうでしょうか?さらにそれだけでなくて、他の様々な宗教の礼拝所をこのグラウンド・ゼロに集中させるんです。

そうすれば、このモスク建設を進めるイスラム教団体の幹部さんの言う「さまざまな考え方を議論し、寛容であることや互いを尊敬し合うことを学ぶ場所」という考えに適うんじゃないかな?とも思いました。


…このニュース、みんなはどう考えますか?
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【news】イスラム教とキリスト教、同じ聖堂で祈りを スペイン
2010-08-20 Fri 18:16
スラム教とキリスト教、同じ聖堂で祈りを スペイン
(8月18日13時39分配信 CNN.co.jp)

スペイン・コルドバ(CNN) スペイン南部コルドバで、観光名所でもあるコルドバ大聖堂をキリスト教の礼拝だけでなくイスラム教の礼拝にも使わせてほしいと求める運動が起きている。

コルドバ大聖堂はかつてモスク(イスラム礼拝所)として使われていたが、キリスト教勢力が13世紀にコルドバを制圧して以降はキリスト教の聖堂となった。イスラム礼拝堂だった場所にはキリスト像が飾られ、カトリックのミサが毎日開かれる。

しかしイスラム教信者にとって同聖堂は、イスラム黄金時代の象徴として今でも重要な場所。イスラム教の神聖な祈りの場である「ミフラーブ」も敷地内の別の場所に現存し、大勢の観光客が訪れる。かつてここがモスクだったころは、1つ屋根の下でキリスト教とイスラム教の信者が祈りを捧げていたという。

イスラム教信者たちはこの伝統を取り戻す運動を展開し、4月には100人以上の信者が敷地内で祈りを捧げるデモ活動を実施した。これを排除しようとする警備員ともみ合いになって2人が逮捕された。

運動を率いるマンスール・エスクデロさんは「異なる宗教の人たちが共に生きるのは、イスラム教徒にとってでなく、人類にとって重要なことだと思う」と話す。

一方、コルドバのフェルナンデス司教は4月の事件を引き合いに、礼拝場所の共有は不可能だとの姿勢を崩していない。

スペインには人口の2%強にあたる約100万人のイスラム教信者がいるという。






はー…。
なんだかため息が出ちゃいますよね…。

この話しを読む限りだと、キリスト教側はもう悪役以外の何者にも見えないじゃないのさー…。

もともとモスクだった場所にキリスト教徒がやって来て、最初はイスラム教徒の皆さんの理解によって仲良く使わせてくれてたのだろうに。いつしかキリスト教徒がモスクを完全にぶんどって聖堂にし、「もう返してあげないよーっ」とか言っちゃってるワケだからね…?

よく考えたらヒドい話しだなー、これ…。


そもそも。
キリスト教もイスラム教も、両者全く同じ神様を信じているはずなのに、どうしていつもいつもこう仲違いする必要があるのか…。

情けない兄弟ゲンカもいいところですよ…。ほんと。

神様に笑われちゃうよ?


なんとかならないのかな…?フェルナンデスさん。
イスラム教の礼拝は金曜日、キリスト教の礼拝は日曜日。特に被ることなく、上手くやれると思うんですけどね。

たしかに、ここが聖堂として使われるようになってからもう何百年と時間が経っているわけだから、いまさらそんな事言われても…、という気持ちも分からなくはないし。それに、キリスト教とイスラム教共同の礼拝所というのも、実際珍しいのは間違いがないですから…。色々と課題はあるのかもしれないですけどね…。

ただ、絶対に解決出来ないほどの課題というわけでもないと思いますよねー…。


でも、もしそうじゃなくて、「教義的な意味でイスラム教とは一緒にやれない」と断固言い張るのなら。それであれば聖堂を丸々イスラム教徒のみなさんに明け渡して、ここに通うキリスト教徒が出て行けばいい話しです。だって、ここはもとを遡れば彼らの場所だったんですし。

はちゃんと通さないとね、司教さん。


「異なる宗教の人たちが共に生きるのは、イスラム教徒にとってでなく、人類にとって重要なことだと思う」

全く、そのとおりだと思います。

マンスールさんや、その他ムスリムのみなさん。挫けず頑張ってくださいね。応援してます!
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【news】頭すっきり お坊さん誕生 東本願寺「得度式」
2010-08-04 Wed 18:15
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すっきり お坊さん誕生 東本願寺「得度式」
(8月4日12時49分配信 京都新聞)

 真宗大谷派本山の東本願寺(京都市下京区)で4日、僧侶になるための儀式「得度式」が行われた。夏休み中の子どもたちが参加し、初々しいお坊さん姿をみせた。
 浄土真宗の宗祖親鸞が9歳で得度したことにちなみ、大谷派では9歳から得度式を受けられる。式は1、12月を除いて毎月7日にあるが、子どもの希望者が多い8月は2回行われる。
 今回は男女188人が式に臨み、9歳の子は72人。御影堂で大谷暢顕門首から頭にかみそりを当ててもらう剃刀の儀を受けた後、真新しい墨袈裟(けさ)を身につけた。記念撮影では頭をそったばかりの男の子や髪を後ろにたばねた女の子が並び、日焼け顔をほころばせていた。






「得度式」というのは、仏教において僧侶となるための出家の儀式です。

「得度」とは、正式に僧侶の仲間入りをして、仏の御教えを信じ、仏の徳を身に具えることで。
この得度を受ける人のことを「発心の人」と呼びます。

得度式では、お師匠様に髪を落としてもらい、衣(ころも)、袈裟(けさ)、坐具(ざぐ)、応量器などの僧侶として必要不可欠なものを頂戴します。

そして、晴れて正式に僧侶の仲間入りをするわけですね。


この子たちみんなが、これから本当に僧侶として生きていくわけではないだろうけど(笑)

心にいつでも仏の御心を持って生きていってほしい、という願いが込められてのイベントなんでしょうか?


それにしても…、みんな何とも言えないいい顔してますよねー。ホント(笑)

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【news】都市部で増えている? 無宗教葬を希望する人
2010-07-24 Sat 18:31
市部で増えている? 無宗教葬を希望する人
(7月22日16時22分配信 Business Media 誠)

 あなたが希望する葬儀スタイルは? 首都圏に住んでいる人に聞いたところ、「仏教」と「宗教は信仰していないが、仏教で行う」を合わせると59%に達していることが、日比谷花壇の調査で分かった。ただ「無宗教」葬を希望する人の割合が、日本消費者協会による調査(2007年に実施)では7.8%であったのに対し、今回のアンケートでは14%。首都圏に住む人の間で、無宗教葬を希望する人が増えているのかもしれない。

 またどのくらいの予算で葬儀を考えますか、と聞いたところ「分からない、考えたことがない」(26%)と答えた人が最も多かった。次いで「50万円以上100万円未満」(19%)、「10万円以上50万円未満」(8%)、「100万円以上200万円未満」(7%)と続いた。






増えてきてるみたいですね、無宗教葬

結婚式でも神様の前で互いに愛を誓い合うキリスト教式のスタイルではなくて、立会人の前で誓約をする「人前式」というのが増えてきてるみたいですけど。これはその葬儀ヴァージョンといったところなんでしょうか?

最近、無宗教葬が選ばれはじめている理由ってなんなんだろう?

今では寺と檀家との関係が弱くなってきた。
葬儀を「死者をあの世に送るための宗教儀礼」ではなくて、「死者との別れ」であるとする考えが生まれてきた。
非宗教化が進んできた。
「自分らしい葬儀」を求める人が増えてきた。

…理由は色々ありそうですね。


…そういえば、話はずれますけど。
葬儀に関してこんな話を思い出しました。

ある日クリスチャンホームで育った友達と一緒に飲んでいたときに、話が葬儀の話題になりました。
その方はつい最近、仏教式の葬儀へ参列したんだそうです。

でも、彼が言うには「やっぱり仏教式の葬儀には違和感を感じる」んだそうで…。

どうしてかと理由を尋ねてみたら。
お経を読み上げたあとお坊さんが色々と遺族の方々に対して今後の「指南」を語ったりしますよね。このあと、故人の為にどんな事をしてあげなければならないのかを細かく語ったりするワケですけど。

初七日法要だとか、中陰・忌中の過ごし方だとか、色々細かい儀式や様式があったりします。


つまり、それが「面倒くさいだろう…」ということらしいんです。


…というのも。
キリスト教では、人が死んだらその魂は即刻天国行きなんです。

故人は何も迷うこと無く、そのまま GO GO HEAVEN!! なんですよね。

だから、キリスト教の葬儀はじつにシンプルです。

しかも、キリスト教では人が亡くなる事を「天に召される」と言うように。どちらかと言えば神様のもとに旅立てる喜ばしい事なので、比較的明るい雰囲気の中で葬儀が執り行われます


なので、キリスト教文化にどっぷり浸かった人からしてみれば「死者が迷わないように成仏まで導いてあげる」という仏教の教えは、若干わずらわしく感じるかもしれない。さらに、キリスト教の葬儀とは違い、みんな苦痛の顔を浮かべて執り行われる葬儀に違和感を感じたとしても、確かに不思議ではなかったのかもしれませんが…。


でも、仏教ではそうじゃないんです。


仏教による葬儀の本質は、死者を彼岸(あの世)に受け渡すことにあるワケで。「成仏する」という表現は無事に死者をあの世に送ることを意味しているんです。

死者が迷わず向こうまでたどり着けるように、苦しみを共にしながら遺族が最期の最期まで一緒になって導いてあげる…。

それが仏教の考え方なわけだし、そしてそれは素晴らしい考え方の一つだと思うんですよね。


だから「仏教式の葬儀は面倒くさいし暗い、キリスト教式の葬儀のほうが明るくシンプルで素晴らしい」と言ってしまうのは、それは完全にキリスト教目線だけで語ってしまっているのであって、仏教のことを何も理解しようとしていないから出てくる自己中心的な考え方なんだと思います、やっぱり…。


もちろん、この逆も然りではあるんですけどね…。

仏教式の葬儀に慣れ親しんだ人がキリスト教式の葬儀に参列した場合、やっぱり色んなカルチャーショックを受けると思います。

でも、それは仏教とは異なる、キリスト教の教えにもとづいた儀式なのだから。仏教式の葬儀の常識とは違っていて当然なんですよね。


…なんか、本当に当たり前の事を言っているようなんだけど、これを受け入れられない人(他の文化との違いを認められない人)というのは意外と多いです。


ところで、話は戻って…。

この無宗教葬は最近徐々に増えてきているのは間違いないけれど、それでも「私は無宗教者です」と名乗る方々全てに受け入れられるにはまだまだ時間がかかりそうなんです。

それはどうしてなんだろう?

それはやっぱり、さっきも言ったように「成仏」が関係してるようなんです。

つまり、宗教儀礼の伴わない無宗教葬だと、故人がしっかり成仏出来ないんじゃないかと。そこの点がどうにも不確かで怖いって言うんですね。


…でも、これってよく考えたらちょっと矛盾してますよね。


「成仏」という考え方を信じているのであれば、それは誰が何と言おうと、その時点でその方は立派な「仏教徒」だと思うんだけど…。
それなら迷うことなく素直に仏教式のお葬式を挙げれば良いのになー…、と思うんです。

それを何もムキになって、「いや、それでも私は無宗教だから…」と意地を張る必要もないのになー…、と。

これは現代の日本人にとっての「宗教」って一体なんなんだろう?という問題ともつながってきて、それについても語りたい事は山ほどあるんですけど。


でもその話はまた後日ということでー、今回はこのへんにしておきますね。

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【news】同性婚認める法律が成立 アルゼンチン
2010-07-17 Sat 18:09
性婚認める法律が成立 アルゼンチン
(7月16日8時56分配信 日本テレビ)

 南米・アルゼンチンで15日、同性同士の結婚を認める法律が可決、成立した。南米での同性婚の合法化は初めてとなる。

 15日の上院での審議は14時間以上に及び、賛成がわずかに上回って、南米初となる同性婚を認める法律が可決、成立した。議会前では、未明にもかかわらず、大勢の同性カップルや人権団体などが集まり、法律の成立を喜んだ。

 アルゼンチン国内では、今回の法律の成立を望む声が多かった一方で、敬虔(けいけん)なキリスト教徒を中心に強い反発の声も上がっており、教会を中心とする大規模なデモが行われている。






残念だけど、現在のキリスト教会では「同性愛は聖書の教えに反する」という考えが主流を占めています

ローマ・カトリック教会は、同性愛を否定する声明を発表しています。プロテスタント系の教会の中には、積極的に同性愛者を受け入れている教派も沢山あるけれど、同じ教派の中でも肯定派と否定派が存在しているのが現状です。

でも、そもそも…。
同性愛否定派の主張する「同性愛は聖書の教えに反する」って、一体どういう事なんだろう…?

たぶん、それは旧約聖書・創世記の中で語られる「ソドムの町の物語」を根拠にしてるんだろうと思います。


「ソドムの町の物語」

ある時、神様は悪徳が栄えた町ソドムを滅ぼそうとしました。しかし正しい人が十人いればソドムを滅ぼさないとアブラハムに約束し、二人の使いをソドムに送ります。神の使いはアブラハムの甥ロトの家に泊まります。するとソドムの男たちは神の使いを襲おうと、ロトの家に押しかけて来ました。結局、十人の正しい人がいなかったソドムは滅ぼされ、ロト一家だけが救出されました。



…こんなお話です。

だけど聖書のこの箇所だけ取り上げてみても、結局ソドムの罪が何であったのかという具体的なことに関しては、じつは一切書かれてないんですよね…。

でも何故か、いつの間にかソドムの罪は男色であったというふうに解釈されるようになってしまったんです。

アメリカの一部の州では、今でもこの物語に基づいた法律「ソドミー法」が施行されています。生殖に結びつかない特殊な性交(…と、法律が解釈する全ての行為)を全面的に禁止してるんです。

この法律のため、自宅で性行為を行なっただけで、同性愛のカップルが逮捕されるという事件も起こりました。でも2003年6月、このソドミー法には違憲判決が下されています。


他人事とは思わずに、どうかみんなも少し考えてみてくださいね。


一部の過激なキリスト教徒の中には、同性愛者は神の怒りを買って国を滅亡に導く恐ろしい存在であり、市民として人権を守られる価値さえないと考える人もいます。

こういった人たちのことを「ホモフォビア(同性愛者嫌い)」と呼んだりもします。

アメリカでは、同性愛者だというだけで暴力を振るわれるという事件も起こってるんです。

そこまで過激でなくても、同性愛者を教会の一員として受け入れるべきではないと考える人もいます。

また、教会は同性愛者を受け入れるべきだけど、同性愛者は自らの生活を悔い改め、異性愛者として生きるか、禁欲するべきだと考える人もいます。


逆に、同性愛を肯定的に捉えるキリスト教徒もいます。彼らは同性愛者も神様がそういうふうにつくったのであって、異性愛者と同じように祝福されていると考えます。


どっちが正しいんだろ?


どっちも正しいのか…?

あるいは、どっちも正しくないのか…?

何か大事なことを見落としてるのか…?


みんなは、どう考えますか?

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【news】不幸は神の仕業、教会襲撃のきっかけは思い込みか…?
2010-07-06 Tue 09:15
幸は神の仕業、教会襲撃のきっかけは思い込みか…?
(7月4日23時6分配信 産経新聞)

 「キリスト教は良い宗教だ」。池田容疑者は以前、聖書を熟読し、毎日教会に通う熱心な信者だった。転機は心酔していた牧師との別れ。「見捨てられた」と恨みに思い、次第に「自分の周りの不幸は神の仕業」と思い込んで教会襲撃という極端な行動に走った。

 池田容疑者が兵庫県川西市のプロテスタント系の教会を初めて訪ねたのは23歳のころ。同居する父親(61)らによると、池田容疑者は大阪府内の公立高をわずか半年ほどで中退後、数年間にわたって職を転々としており、当時、バイクで暴走するなど生活が荒れていたという。

 「十字架のネックレスをください」と申し出た池田容疑者を、牧師は「教会に通いなさい」と諭した。池田容疑者は牧師の人柄にひかれ、毎日教会に通い、掃除や信者の送迎など熱心に奉仕。聖書を熟読し、内容を短冊に書き写して自室に張った。

 しかし2~3年前、牧師が海外留学したのを機に、「見捨てられた」とふさぎ込むようになった。教会の関係者は「心の支えを失ったようだった」と話す。

 父親や親族の病気を「神の仕業」と決めつけ、「これだけ奉仕したのに」と嘆いた。やがて「教会は不幸を招く」と礼拝をやめた。

 父親によると、池田容疑者はこのころ「神の声が聞こえる」と言い始め、夜中の外出が多くなった。事件の始まりもこの時期と重なる。

 「まさかお前じゃないやろな」。今年5月、事件を伝える新聞を読んだ父親が尋ねた。池田容疑者は「何でそんなことせなあかんねん」と否定したが、新聞を持って自室にこもった。以来、事件は止まった。

 4日早朝、捜査員に任意同行を求められた池田容疑者は犯行を認め、「申し訳ない」と家族に言い残して家を出たという。父親は「きちんと償いをしてほしい」と話している。






2008年9月以降、大阪や兵庫などで教会に消火器が投げ込まれる事件が続発していたニュースの続報です。
ついに容疑者が送検されたようです…。

なんていうか…。この人のこれまでの心情の変化を考えていたら、なんとも言い切れない気持ちになりました。

きっとその牧師さんは、本当にいい牧師さんだったんだろうね。
だからこそ、この人にとってその牧師の先生は大きな心の拠り所になっていったんだろうと思うけれど。


…でも、ちょっとばかり依存し過ぎたかな。


「キリスト教は良い宗教だ」なんて、そんなにはっきり言い切って盲信するのは危ない。

世の中にある全てのものにはね、必ず「光」と「陰」があるものなんです。

それが「キリスト教」だろうが、「聖書」だろうが、「牧師の先生」だろうが同じ事。


この生きるには辛く長い人生の中で、「これだけは間違いなく信じられる」というモノが何か一つくらいあって欲しいっていう気持ちはよく分かるんです…。

でも残念だけれど、そんなモノがこの世に存在するなんて思い込むのはある意味それは現実逃避であり、幻想です。

キリスト教を含めた「宗教」だけは特別だ。

「宗教」は自分を救ってくれる

「宗教」だけは絶対に信じられる…。

そんなふうに、盲目的に思い込むのはあまりにも危険極まりない行為です。

ある時、心の底から信じていたそれに万が一失望する出来事が起こったとき。それが一気に負の感情へ変わってしまいます…。


決してキリスト教を含めた、宗教を否定しろと言っているんじゃありません。

宗教というのは、これまでの歴史に於いて様々な地域に住む人々の文化・芸術・思想・道徳などなどの基盤となってきた、絶対に無くてはならないものです。だから、それぞれの人の中に、それぞれの信仰があって然るべき…。

…でも、一人称的な目線の信仰ばかりじゃ駄目なんです。もっと視野を広く持たないと。

自分の目線、相手の目線、社会全体の目線…。

そういう様々な目を持って考える事が出来ない時、宗教は間違った方向へ人を突っ走らせる事になっちゃうんです。


盲信。
それだけは決してあってはならない事だと、自分は思います。

それにこの事件には、現代のキリスト教が抱える「陰」の断片が凝縮されているようにも見えます…。

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【news】異なる宗教の信者、雲南省でスポーツ大会に参加
2010-06-29 Tue 08:20
なる宗教の信者、雲南省でスポーツ大会に参加
(6月24日11時41分配信 ロイター)

[北京 23日 ロイター]中国南西部の雲南省で、仏教、道教、イスラム教、キリスト教の信者が集まり、20日から22日にかけてスポーツ大会を開催した。新華社が報じた。このような大会が中国で開かれるのは初めてだという。
 この大会には、1000人近くが21のチームを組んで参加し、陸上、卓球、バドミントン、バスケットボール、チェス、縄跳び、綱引きの種目で得点を競った。中には異なる宗教の信者から成るチームもあった。
 同大会の開催組織でもある雲南省当局宗教部門の責任者は、「異なる宗教間での交流を深めることが大会の目的だ」と説明。試合では、短く切った袈裟と運動靴を着用してバスケットボールをする仏教僧のチームなどの姿がみられたという。






このニュース記事、最初読んだ時は面白い試みだなーと思ったんですが。
でもでもよく考えてみたら、これって「ある意味普通」なんですよね。

たとえばワールドカップのサッカー場のフィールド、客席、会場周辺の人々を眺めてみたら、たぶんもっと多種多様な信仰を持った人たちが入り交じってると思うんです。

だから一部を除いて、世界の多くの地域では様々な宗教が入り交じった状態というのはごくあたりまえの事だったりするんですよね。

でもそういう地域では無用なトラブルを防ぐ為に、むやみやたらに宗教の話題は持ち出さないというセオリーみたいなものが根付いているので、宗教間での対話というのは逆に無いのかもしれません…。


だから、その事を改めて再確認して、それぞれの宗教を意識しながらお互いを理解して親交を深めるという意味では、こういったイベントはなかなか面白いんじゃないかなーと思ったのでした。


それにしても、袈裟を着た僧侶がバスケって…。

カッコ良すぎる。

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【news】人形に針ブスリ…、W杯日本代表にも呪い?
2010-06-19 Sat 13:20
形に針ブスリ…、W杯日本代表にも呪い?
(6月17日12時59分配信 サンケイスポーツ)

 サッカーワールドカップ(W杯)南アフリカ大会で、初戦の北朝鮮戦を2ー1で勝った優勝候補の一角、ブラジルで、ライバル国をイメージした「のろい人形」が通販で売り出され、話題となっている。中米ハイチ生まれのブードゥー教の“のろい人形”を模したモノで、針とセットで売り出されているとか。日本代表の人形もあるというからビックリ?!

 日本では丑三つ時にわら人形に五寸釘を打つ。西洋では、相手に似せた人形の中に髪やつめを入れ、のろいをかける。世界には様々な「呪詛(じゅそ)法」があるが、ブラジルでは、W杯のライバル国に“のろい”をかけようと、大音響のブブゼラも真っ青の“びっくりグッズ”が登場した。

 海外メディアによると、「のろい人形」は中米ハイチの宗教、ブードゥー教のスタイルで、ブラジルのインターネット通販サイト「ブードゥー・コパ」が売り出した。15センチほどの人形に、それぞれの代表ユニホームが着せられた上、針5本がセットで、1体10レアル(約500円)。

 W杯出場32カ国すべての人形が用意されているようで、サイトには、日本代表の人形の写真も掲載。写真を見る限り、青いジャージーに日の丸をつけた“安物”っぽかった。うたい文句は「真心をこめて、針で突き刺しましょう」とブラックユーモアたっぷりだ。

 実はブラジルでは、アフリカ起源の宗教と地元の信仰、キリスト教が結びつき、「マクンバ」「カンドンブレ」などと呼ばれる民間信仰があり、呪術なども一部では今も行われている。最近では昨年12月、同国バイア州西部の村で2歳男児の体内から長さ約5センチの針42本が見つかり、男児の継父(30)らが逮捕された。警察の聴取に継父は、呪術に関心を持ち、近所に住む呪術師の女の指導を受けて儀式で行ったと供述している。

 今回の売れ筋の一番人気は南米のライバル国、アルゼンチン代表で、フランスやイタリア、ドイツの代表も人気があるという。ちなみに、アルゼンチンのマラドーナ監督の人形や、ブラジル代表のドゥンガ監督の人形もあるという。

 同サイト関係者は、ブラジルのスポーツ紙に対し「ちょっとしたお遊びさ」と話している。日本は19日の第2戦で強豪オランダと対戦するが、まさか、人形を通販で買った人はいませんよね?






めっちゃ怖いニュース記事発見…。

それにしても「呪い」だなんて、本当にあるんでしょうか…?


自分が小学生の頃、図書室の一角に「世界の黒魔術」的な本が置いてあって、休み時間に友達とドキドキしながら見ていた記憶があります。
どうして小学校の図書室にそんな物騒な本が置いてあったのか、いまだに不思議でしょうがないんだけど…(笑)。

その中には、アフリカの精霊信仰に根ざした魔術なんかも書いてありました。
このあいだも、南アフリカの呪術師がワールドカップの勝敗を予言したとかで話題になってましたよねー。

あの迫力ある呪術風景なんかみていると、本当に彼らの呪いには効き目があるんじゃなかろうかと…。ちょっと青ざめてみたり…。


思い出しました…。

そういえば…。

「人を呪わば穴二つ」ということわざがありますよね。

平安期の陰陽師たちは人を呪い殺そうとするとき、呪い返しに遭うことを覚悟して、自分の分も含め墓の穴を二つ用意させたんだそうです。

つまり、人を呪うにはそれなりの覚悟が必要だという事。

転じて、容易く他人を恨むことを戒める…。

そんなことわざですね。


人を恨んだり、ましてや呪いをかけようだなんて。考えるもんじゃないよね…、やっぱりね。


おー…、怖っ。
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【news】<ケニア>政治集会で爆発、5人死亡
2010-06-16 Wed 13:47
ケニア>政治集会で爆発、5人死亡
(6月14日11時2分配信 毎日新聞)

 【ヨハネスブルク高尾具成】ケニアの首都ナイロビ中心部の公園で13日、閣僚を含む約2000人が参加して開かれていた政治集会で2回の爆発が起き、少なくとも5人が死亡した。

 ケニアでは8月に憲法改正案が国民投票にかけられる。改正案には、既存のイスラム法廷存続や妊娠中絶を認める条項があり、キリスト教団体が抗議集会を開いていた。

 爆発は小規模だったが、集会参加者をはさむようにして2回発生。逃げようとした参加者が折り重なって倒れており、被害拡大を招いたという。爆発原因は明らかになっていない。






ケニア共和国の人口は、約四千万人。
そのうちキリスト教徒は約70%で、残りは地域に古くから伝わる精霊信仰を持っています。


“今回のこの集会を狙った爆発”と、“憲法改正案に対してキリスト教団体が抗議していた”という二つの事実が本当に関連しているのかどうかについては、この記事からだけでは分からないんですが…。

仮にそのキリスト教団体による犯行なんだとすれば、同じキリスト教側にいる人間としてこれは本当に情けなく感じるし、同時に憤りを覚えます。


人工妊娠中絶を認めず、胎児の命を守るべきだと主張するけれど。

でも同時に、爆弾で人を殺す事は問題無いとでも言うつもりなのだろうか…。

ワケが分かりませんね…。


この人工妊娠中絶についても、やっぱりキリスト教界では色々と議論される事が多い問題ですよね…。

これについても、いつか時間をとって自分なりの意見を述べてみたいと思います。


とにかく、この事件については詳細な続報を待ちたいと思います。

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【news】僧侶バンド「G・ぷんだりーか」、大須の寺でCD発売記念ライブ
2010-06-14 Mon 15:45
侶バンド「G・ぷんだりーか」、大須の寺でCD発売記念ライブ
(6月14日11時30分配信 みんなの経済新聞ネットワーク)

 大須・楽運寺(名古屋市中区大須4)の線香の香りがほのかに漂うお堂で6月10日、黒い法衣を身にまとった僧侶バンド「G・ぷんだりーか」のCD発売記念ライブが行われた。(サカエ経済新聞)

 メンバーは、佐々木賢祐さん(ギター・ボーカル)、伊藤修さん(ギター・ボーカル)、寺西伊久夫さん(ウッドベース・コーラス)、加藤一尊さん(キーボード・コーラス)の4人。全員が名古屋市内の寺に属する現役の僧侶だ。

 結成のきっかけは、今年3月に真宗大谷派名古屋別院(中区橘2)で行われた「親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け大会」。「手作りで何かをやろう」と僧侶仲間で楽器が弾けるメンバーが集まった。好きなジャンルはバラバラで年齢も30~60代と幅広いが、「好きな音楽を通して布教活動ができれば」という思いは同じ。テーマソング「いのちの輝き」を制作し、ライブ演奏を行い反響を得た。

 その後、いったんは解散したが楽曲を作品として残しておきたいと4月に自主制作でCD「いのちの輝き/念仏ブギ」(1,000円)を作成。バンド名を正式に「G・ぷんだりーか」と名付け、本格的に活動をスタートさせることになった。

 「言葉の中に宗教性を持たせてある」というオリジナル曲は、わかりやすい言葉を用い「誰もが口ずさめる」歌詞と、覚えやすい「ポップでキャッチー」なメロディーが特徴。「日本の宗教音楽は暗いイメージがある。まず自分たちが活動をすることによってバンドというフィルターを通し、明るいリズムに乗せて仏教の教えを伝えて行きたい」とリーダーの佐々木さん。「言うなれば『仏教板ゴスペル』」とも。

 「G・ぷんだりーか」として初ライブだったこの日は、知人や門徒など約40人が集まった。厳かな雰囲気の中、神妙な面持ちで登場したメンバー。合掌の後、さっそうとタスキを掛け気合いを入れる。法事や突然の通夜など全員そろっての練習がほとんどできない中、「各自個人練習に勤しみ、スキルアップに努めた」と寺西さん。曲の合間に法話を交えるなど、僧侶バンドならではの構成で「いのちの輝き」「念仏ブギ」など全6曲を演奏した。初めて見たという門徒の80代男性は「CDを聴いてなかなかうまいなと思った。これからも頑張って布教につなげてほしい」と温かいメッセージを送る。

 「続けていくことがまずは大事」と佐々木さん。「その中で楽曲が残り、歌い継がれるような作品を作っていきたい」と力を込める。作詞を手掛ける伊藤さんは「ゴスペルならぬ『ブッダスペル』として広めていきたい」と笑顔で話す。

 「音楽」という表現を用い、高い目標を掲げ活動を再スタートさせた「G・ぷんだりーか」。CDも発売から1カ月で約300枚を売り上げた。お披露目となったこの日のライブは同バンドにとって船出となり、集まった人たちも笑顔で寺を後にした。

 今後のライブ予定は楽運寺のホームページで確認できる。






このあいだもブログ記事に書いた、僧侶によるラジオ番組「8時だよ!神さま仏さま」もそうでしたけど。
やっぱりお坊さんって、けっこう好奇心旺盛な方が多いような気がしますよね(笑)

このニュース記事には写真が付いてたんですけど、袈裟姿のお坊さん達がエレキギターやウッドベースを抱えてるその写真がとってもシュールで…。

…とっても斬新ですね。


この楽運寺は愛知県名古屋市にある真宗大谷派のお寺で、建立は慶長十五年(1610年)。阿弥陀如来木立像をご本尊とされているそうです。

そして、バンドのキャッチフレーズは
「真宗寺族による法話と音楽の融合を目指すバンド『G・ぷんだりーか』」

この「ぷんだりーか」というのは、サンスクリット語で「白蓮華」を表すとか。百蓮華は泥の中でも泥に汚れることなく、純白の美しい花を咲かせるんだそうです。


作詞を手掛ける伊藤さんが、「ゴスペルならぬ『ブッダスペル』として広めていきたい」と仰っています。

たしかに、キリスト教ではしょっちゅう歌を歌いますね。だからキリスト教は「歌う宗教」なんて言われたりもします。
仏教ではいわゆる「歌」を歌う事はないかもしれないけど…、でも読経はしますよね。あれもやっぱり歌というか、音楽なんだと思います。木魚のリズムに乗せてお釈迦様が説いた教えを朗読するワケです。

…ラップみたいなものでしょうか?(笑)


なので、キリスト教に限らず、全ての宗教に於いて音楽や歌は重要な意味を持っている事が多いんだと思います。


でもまあ何より、歌ったらみんな楽しくなれるしね。
難しいこと抜きにしても、そんな単純な理由だけでもごく自然な流れなのかもしれませんよねー。


…ところで、このCDって通販やってるかな?

…めっちゃ欲しいんですけど。


“太子山 楽運寺”ホームページ
http://www14.ocn.ne.jp/~rakuunnj/
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