FC2ブログ
スポンサーサイト
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
別窓 | スポンサー広告 | top↑
どうして日本にキリスト教は根付かないのか…?
2010-05-11 Tue 01:22
本に暮らすキリスト教徒、つまりクリスチャンは、現在日本全人口の1%にも満たないと言われています。

日本に初めてキリスト教が伝えられたのは1549年。
イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、九州や中国地方で宣教活動を行ないました。

その後も次々と宣教師が日本を訪れ、織田信長の時代には多くの日本人がキリスト教に改宗します。


でも、あれから460年…。


これだけの長い年月が経っていながら、結局日本にはほとんどキリスト教が根付く事はありませんでした
それは一体どうしてなんでしょうか?


それを一つの理由だけで説明する事は難しいとは思うけれど…。

たとえば、時代によってキリスト教が認められたり、またある時は弾圧されたり。その時の権力者の政治的な思惑によって日本のキリスト教徒が翻弄されてきたという事が、理由の一つであったり。

あるいは世界中に目を向けてみると、現在キリスト教徒の多い国の中には、キリスト教圏の国の植民地となっていたという過去があったりする。つまり、植民地化された際に、無理矢理キリスト教に改宗させられたという歴史がある訳です。アフリカの国々に現在キリスト教徒が多いのは、こういう経緯もあります。

日本はアメリカに戦争で負けはしたけれど、植民地化はされなかった。だから、文化的な民族浄化を免れた日本にはそこまでキリスト教が広まらず、自分たちの伝統的な文化や宗教を守っていった、それも理由の一つです。


そして、それに関連するんですけれど。


農学者であり教育者、そして自身もキリスト教徒であった新渡戸稲造(にとべいなぞう、1862年~1933年)という人がいました。
樋口一葉さんの前の、五千円券に印刷されていた人と言えば分かるでしょうか?

彼が自身の著書『武士道』(1899年)の中で、日本にキリスト教が根付かない理由として、「大方の伝道師たちが日本の歴史にまったく無知なためである」と語っています。

日本人の心の中には無意識のうちなりにも、長い年月をかけて神道・仏教・儒教を元に育まれてきた「武士道の精神」が根付いていて、日本の道徳教育の礎はそこにあり既に完成されている、そこに今さらキリスト教の精神が入り込む余地はない。

日本のキリスト教伝道師たちはその事を知ろうとしていない、だから日本にはキリスト教が根付かないのだ…、と。そう言うのです。


『武士道』の序文では、こんなエピソードが書かれています。

新渡戸稲造がベルギーの法学者、ド・ラヴレーのもとで過ごしたときの話でした。
新渡戸は、ド・ラヴレーとの散歩の途中に、話が宗教の問題に及びます。そのとき、ド・ラヴレーから「あなたのお国の学校には宗教教育はない、と仰るのですか!?」と質問されます。このとき、新渡戸は「ありません」と答えたそうです。
そうすると、ド・ラヴレーは驚いて歩くのを止め、「宗教がない!それでどうやって道徳教育を授けるのですか?」と聞き返してきます。そのとき、新渡戸の心の中に湧いてきたのが、幼年時代に過ごした家庭の教育だったといいます。

そして、ふと頭に浮かんだのが『武士道』というものだった…。


日本人の心の中には伝統的な「武士道の精神」が根付いている。だから、そこに今さらキリスト教の精神が入り込む余地はない…。それは、まさにその通りだと思います。

新渡戸さんは、日本人の言葉にしにくい道徳観や感情を、この著書の中で見事に語りきっていると思います。

義理・勇気・人情・礼節・誠実・名誉・忠義などなど…。
自分たち日本人が幼い頃から親や家族や学校などで教わる道徳観。それらはすべて『武士道』、つまり神道や仏教、儒教などの教えに基づいているんですね。


現代の日本には宗教の自由があります。だから、自分の信じるものを信じればいい。

だけれど、この『日本』という国の文化を形作ってきたのは間違いなく、神道・仏教・儒教なんです。

はたして、それを否定してまで無理にキリスト教をこの国に広める必要はあるんでしょうか…?


この先も、日本でキリスト教が広まる事はおそらく無いと思います。でも、それでいいんです。
日本には、日本独自の素晴らしい宗教や文化や歴史があるんだから、それを大事にするべきなんです。


そしてそれを大事に出来て、その上でキリスト教に興味があるという人がもしいるならば。そのときはぜひ教会にいらしてください。

キリスト教も様々な国の文化や歴史を形作ってきた宗教です。それを知ることによって、きっと世界観はより広がると思いますよ。


以下、新渡戸稲造の『武士道』から抜粋します。

“ 武士道は蘇るか ~武士道による無言の感化~ ”
( 新渡戸稲造『武士道』、第十六章より )

 武士道の影響は今なお深く根づき、かつ強力である。だが先に述べたように、その影響は必ずしも意識されたものではなく、無言の感化である。日本人の心は、たとえその理由が明らかでないときでも、父祖から継承した観念に対する訴えには応答する。そのことは、たとえ同一の道徳観念であっても、新しい翻訳用語と、古い武士道の用語によって表現されたものの間には大きな開きがあることを意味している。
 信仰の道から遠ざかっていくキリスト教徒がいた。そのとき牧師の説教は彼の堕落を救うことができなかった。しかしかつて彼が主に対して誓った忠誠、すなわち忠義に訴えられると、彼は信仰の道に復帰せざるをえなかったのである。「忠義」という一語が、なまぬるく、あいまいな状態に置かれていたすべての品性ある感情を復活させたのだ。
 ある大学では、血気盛んな学生の一団が一教授に対する不満から長い間「学生ストライキ」をしていた。しかしそれは学長が提言した二つの単純明快な問いかけによってあっさりと終息した。
 学長は「君たちの批判する教授は価値ある人物であるか。もしそうならば、君たちは先生を敬愛し、大学にとどまってもらうべきではないか。その先生は弱い人であるか。もしそうならば倒れ伏している人を押しつぶすのは男らしくないではないか」と問うたのである。
 ここではこの紛争の発端であった教授の学問的能力不足は、学長が提起した道徳上の問題とくらべると、重大な問題ではなくなっている。つまり武士道によってはぐくまれた感情を刺激することにより、偉大な道徳的革新が達成されたのである。
 日本においてキリスト教伝道事業がいまだに大きな成果をあげえていないのは、大方の伝道師たちが日本の歴史にまったく無知なためである。
 現に「異教徒の事跡に関心をはらってどうなるのだ」という人もいる。その結果、彼らの宗教は私たちおよび私たちの先祖が過去数百年にわたって慣れ親しんできた思考の習癖を知ることから遠ざかっているのである。
 一国の歴史をあざけることがあってよいのだろうか。いかなる国民の来歴も、文字による記録をもたない。もっとも未開とされるアフリカの人びとの経歴でさえ、神御自身の手によって書かれた人類史の一ページではないか。
 この地上からすでに滅亡した種族さえ、慧眼な学者たちによって解読されうる古文書である。哲学的かつ敬虔な心をもつ人にとっては、種族自体が神の書きたもうたしるしであり、あるいは黒く、あるいは白く、それぞれの皮膚のように、明瞭にその跡がたどれるのである。
 もしこの比喩を用いることをよしとするならば、黄色人種は金色の象形文字で刻まれた貴重な一ページをつくることとなる。
 国民の過去の足跡を無視して、宣教師たちはキリスト教を新しい宗教だと主張する。だが私の考えでは、それは「古ぼけたお話」のたぐいである。もしキリスト教がそれぞれの国民に親しみやすい言葉で、人びとの道徳発達水準を考慮に入れて説かれるならば、人種や民族にかかわりなく、人びとの心にたやすく宿ることだろう。
 アメリカ的、あるいはイギリス的様式のキリスト教、すなわち、造物主の恩寵と至純よりも多分にアングロ・サクソン人の奇矯と幻想を含んでいるキリスト教は、武士道という幹に接ぎ木をするには貧弱すぎる芽である。新しい信仰の布教者たるものは、すべての幹、根、枝を根絶して、荒れ果てた土壌に直接福音の種を播くべきだろうか。
 そのような思いきった方法は、たとえばハワイでは可能であるかもしれない。そこでは戦闘的な教会が富そのものを略奪し、原住民の絶滅にも完全に成功したとされている。しかしこのようなことは日本ではまったく不可能である。
 否、そのような方法はイエス御自身が地上に神の王国を創りたもうために、けっしてとられないやり方である。
 私たちは、聖者であり、かつ敬虔なキリスト教徒であり、かつ深遠な学者( †1 )が述べている次の言葉を深く心にとめるべきであろう。
「人びとは世界を異教徒とキリスト教徒とに分けた。しかし前者にどれほどの善が隠されているか、また後者にどれほどの悪が混入しているかを十分考慮しなかった」
 キリスト教徒は自分たちの最善の部分と隣人の最悪の部分とを比較した。すなわちキリスト教徒の理想と、ギリシャ、あるいは東洋の堕落とをくらべたのである。彼らはけっして公平無私であろうとはしなかった。自分たち自身の宗教について多分に褒めそやすようなことのみを集め、他の様式をもつ宗教については、おおいにけなしたことのみを集めて満足している。
 だが、個人が犯した過ちがいかなるものであろうと問題ではない。武士道の将来を考えるとき、彼ら宣教師たちが信奉する宗教の根本的原理がすでに一大勢力をなしていることを少なからず考慮に入れなければならない。
 武士道の余命はあといくばくもないかのようである。その予兆となる、かんばしくない徴候が大気中に瀰漫しはじめている。いや、徴候のみならず、あなどりがたい諸勢力が武士道をおびやかすべく動きはじめている。

 †1 : Jowett Benjiamin(1817-1893)、イギリスの古典学者、神学者。
     引用文は彼の著作“Sermons on Faith and Doctrine”の第二章より。


この抜粋の最後で新渡戸稲造は、「彼ら宣教師たちが信奉する宗教の根本的原理がすでに一大勢力をなしていることを少なからず考慮に入れなければならない」「武士道の余命はあといくばくもないかのようである」と述べていますが。

…それは結局、いらぬ心配だったようです。

新渡戸がこの『武士道』を出版してから一世紀以上経過した現在でも、日本人は自国の伝統的な宗教や文化や慣習を、変わらず守り続けています。

現在も、そしてこれからも、日本人の心の中には武士道の精神が脈々と受け継がれていくのでしょう。

別窓 | chat | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
<<【news】ローマ法王、性的虐待問題で教会の責任認める | クリスチャン のな の“それってどうなの?~how about IT!~” | 【news】H20年以降近畿で72件、消火器「攻撃」に悩める教会>>
 
 
 
 
 
 
  管理者だけに閲覧
 

トラックバックURL

FC2ブログユーザー専用トラックバックURLはこちら
| クリスチャン のな の“それってどうなの?~how about IT!~” |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。