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【news】刑場初公開 執行、脳裏から消えず 元検事
2010-08-28 Sat 20:16
場初公開 執行、脳裏から消えず 元検事
(8月27日13時8分配信 毎日新聞)

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↑報道機関に公開された東京拘置所の「刑場」の「ボタン室」から見た「執行室」(右奥)=2010年8月27日午前、東京都葛飾区(代表撮影)


 死刑執行の場となる東京拘置所の刑場が27日公開されたが、更生を期待されない死刑囚への刑執行はこれまでごく限られた関係者だけで行われ、その最期もベールに包まれたままだ。狭く、無機質な刑場で、死刑囚はその時をどんな心境で迎え、取り巻く人たちはどう見送るのか。「別れの朝」に立ち会った経験を持つ当事者が重い口を開いた。【石川淳一、反田昌平】

 死刑囚が目隠しをされ、両手を縛られる。キリスト教の教誨師(きょうかいし)は声を出し祈り続けた。隣接の執行室へのカーテンが開かれ、死刑囚が導かれる。カーテンが閉じると何秒もたたないうちに「ダン!」という踏み板が開く音が室内を包み、再び静寂が戻った。

 家族も面会に来ない死刑囚は数多い。心情の安定のため面会を許されるのが教誨師だ。月1度、拘置所の一室で向かい合う。大半は息詰まる生活から、ほんの一時解放されたようにしゃべり続ける。

 「その日」の連絡は突然来る。「明日空いていますか」。拘置所の連絡で執行を知る。朝、執行室隣の部屋。扉が開き、死刑囚が青白い顔で入ってくる。「今から執行する」。拘置所長が死刑を宣告した後、テーブルを挟み、ごく短い儀式が行われる。

 「償ってきます」と柔らかな笑顔を向ける人。「一足お先に待ってます」と言う人。大半は静かに受け入れた。教誨師はこれまでの面会に対し「ありがとね」と声を掛け、体に触れて肌のぬくもりを伝える。最期の瞬間を目にすることはない。

 多くの死刑囚に拘置所で洗礼を施す一方、犯した罪から目を背け死を急ぐ死刑囚も多かった。「自分が生きる意味を考えてみてくれ」と諭し続けた。執行から1時間後、納棺された死刑囚と対面した。「終わったね」と声を掛けた。

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 「納得して立ち会わないといけないと思ったから、判決文は熟読したよ」。08年に執行に立ち会った元検事はそう振り返る。

 執行2日前、次席検事に呼ばれた。「立ち会ってもらいたい」と告げられ、死刑囚の判決文を渡された。

 検察庁では年度初めに検事が抽選で「立ち会い順」を決めていた。その順が回ってきたのだ。「自分が起訴したり、判決を見た犯人ではない。納得して立ち会わないと」。判決文を読み「これなら仕方がない」と感じた。

 午前8時過ぎ、検事、拘置所長、医務官ら数人が立ち会い室で見守った。10メートルほど先に白いカーテンが引かれ、カーテン越しに、教誨師と向き合う死刑囚の横顔のシルエットが見えた。目隠しをされ、検事らの方に向き直った時、カーテンが外され、正面を向いた死刑囚と向き合った。誰も声を上げず、静かに進んだ。

 死刑囚の首に縄が掛かると、その瞬間、床がはずれて体が下へ落ちた。医務官が時間を告げ「執行」と言ってそばに寄り、指で腕の脈を診て聴診器で鼓動を聞く。「何時何分、死亡」。カーテンが開いて1、2分、あっという間の事だった。

 検察庁へ戻ると清めの塩がまかれた。次席らから「お疲れさま」とねぎらいの声がかけられた。

 元検事は「仕事だから特に思うことはない。ただ、執行の場面は今でも、まぶたに映像のようによみがえる」と話した。






教誨(きょうかい)というのは、矯正施設にいる受刑者の方々の道徳育成や精神的な救済を目的として行われる活動一般のことです。この教誨を行う人のことを教誨師(きょうかいし)といいます。

教誨には、道徳や倫理のお話などで、刑務官や法務教官などが行う「一般教誨」と。宗教的なお話や宗教行事で、各宗教団体に所属する宗教者(僧侶・神職・牧師・神父など)により行われる「宗教教誨」の二つがあるみたいです。

受刑者にとって一般教誨は強制参加ですが、宗教教誨は日本国憲法に定める信教の自由の観点から、参加は自由となっています。


死刑執行の場である、東京拘置所の刑場が27日に公開されました。

死刑制度は本当に必要なのか、必要じゃないのか…。

個人的な意見は一応あるんですけどね…。でも、既にあちこちで色々と議論されていることだし、ここでは敢えてその問題については触れません。


自分も初めて知ったんですけど、死刑囚の方がこの刑場に足を踏み入れると、まず最初に目に飛び込んでくるのは「仏壇」なんだそうです。死の間際、優しく微笑む仏様の顔を見て、死刑囚の方は何を思うんでしょうか…。

その後、希望者には教誨師との面会が許されます。

仏教の僧侶との面会を望む方が一番多いそうなんですが、教誨師の各宗教毎の割合は次いでキリスト教、神道の順に多いのだそうで。天理教など、新宗教諸派の教誨師もいらっしゃるようです。


「宗教」って、一体なんなんだろう?

「宗教」は、「心の弱い人」が「すがりつく」もの?
「宗教」は、人を「堕落」させたり「洗脳」したりする「恐ろしい」もの?
「宗教」でいう神様なんて、人間の想像上の産物であり「意味の無い」もの…?

でも、死刑囚の方々が死の直前に宗教者を通じて対面するのは、「仏様」であり、「ジーザス」であり、「八百万の神々」であったりするわけです…。そして、無宗教者として生活してきた多くの死刑囚でも、最期にそれを自ら望むといいます。


人間の「死生観」と「宗教」とは、やっぱり切っても切り離せない、人間が人間として成立する為の根本と密接に関わってるんじゃないのかな…、きっと。

自分達が普段何気なく生活している時には、それを意識するなんてことは少ないかもしれないけれど。ふと立ち止まって周りをゆっくり見回してみれば、その意味に気づくことが出来るかもしれません。


…それにしても。

このニュースは、「人が人を裁く」ことの難しさを改めて考えさせられます。

ネット上では「死刑制度賛成」という意見が大半らしいですね。
「残忍な罪を犯した人間は死刑になって当然、犠牲となった人とその遺族の気持ちを考えれば、受刑者はその死をもって償うべき」ということかもしれません…。その意見も一理あります。

でもそんな意見の持ち主でも、「じゃあ、その死刑執行ボタンをあなたが押してください」ともし言われたなら…。この責任の重さに耐えられるのかどうかはまた疑問です…。

だからこそ死刑執行ボタンは三つ用意されており、三人がそれぞれ同時にボタンを押して、刑を執行したのが誰なのかあやふやにするという形式が取られているわけなんですが…。

結局、「罪人には死を」という気持ちと、「でも、自分は手を下したくない」という気持ちの矛盾が、いわゆる人間らしさなのかもしれませんね…。
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