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2011-10-19 Wed 19:57
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エジプト 民主化プロセスに暗雲 コプト教徒と軍衝突で25人死亡
(産経新聞 10月12日(水)7時55分配信) 【カイロ=大内清】エジプトの首都カイロ中心部で9日夜、キリスト教の一派コプト教徒のデモ隊と、軍や近隣のイスラム教徒との衝突があり、25人が死亡、300人以上が負傷した。両宗教間の反目がさらに強まるだけでなく、今後の民主化プロセスに複雑な影を落とすことも懸念される。 同国では2月のムバラク前政権崩壊後、治安機関が一時弱体化したことや、急進的なイスラム勢力の台頭もあり、もともと根深かったコプトとイスラムの対立が先鋭化していた。 加えて、民主化勢力の間には、民主化で既得権益を失うことを恐れる前政権関係者らが、宗教対立を利用し社会不安を醸成しようとしているとの指摘もある。 今回の事件では、同国南部で9月に起きた教会襲撃事件に抗議するコプト側と、軍部隊とがにらみ合っているところに何者かが発砲し兵士らが死亡。国営テレビが「コプトの発砲」と断定的に報じたことなどから、怒ったイスラム教徒が駆けつけ衝突が拡大した。 その後、全権を握る軍部は10日、衝突を扇動する者がいなかったかなどを調べる委員会の設置を命じた。同国では今後、11月の人民議会選など重要選挙が続く。混乱に拍車がかかれば、治安機関が再び強大化し民主化の進展に影響を与える可能性もある。 ■抗議の副首相が辞任 国営テレビによると、ベブラウィ副首相が11日、辞表を提出した。副首相は、政府の対応が不適切だったと述べているといい、抗議の辞任とみられる。 2010年12月にチュニジアで起きた一人の男性による焼身自殺、それが発端となってアラブ世界へと一気に波及した大規模な反政府デモ。「アラブの春」と呼ばれたこの一連の騒動は、エジプトにおいては30年にも及んだムバラク独裁政権を崩壊させるまでに至りました。 どの周辺国よりも一足早く民主化への道を歩み始め、幸せな未来が見えたかに思えたエジプトですが…。 でも実際にはエジプト経済は革命前よりも悪化してしまいましたし、観光客も四分の一にまで減ってしまったそうです。さらに暫定政権への不満が高まり毎週のようにデモが起きるなど、未だに混乱状態が続いているようなんです…。 なかでも懸念されているのは、なんと言ってもやはり治安の悪化です。 特に最近大きな問題になっているのは、一部の過激なイスラム教徒によるキリスト教徒への襲撃事件。 エジプトというとイスラム教徒の国というイメージが強いですが、じつは国民の約一割はコプト教という宗派に属するキリスト教徒なんです。 「コプト」とは、ギリシャ語で「エジプト」という意味です。 七世紀、エジプトはイスラム教徒によって征服されるのですが、コプト教徒たちはそれ以前からこの地域で暮らしていました。エジプトの人口8300万人のうち約一割、数百万人規模の人々が今でもコプト教徒だと言われています。 451年にカルケドンという都市で行われた公会議(キリスト教の聖職者達による会議、教義における最高権威)において異端とされてしまい、それ以来初代教会から分離。そして現在に至っています。 今年の5月、カイロ市内のコプト教会がイスラム過激派に襲われ12人が死亡するという事件が起こりました。さらに、9月にも同様の事件が発生。 今回コプト教徒らがデモを行っていたのは、これらの事件に対する政府の対応に不満を抱いていたからです。じつはこれまでもコプト教徒らはたびたび一部のイスラム過激派から被害を受けていたにも関わらず、なかなか事件を取り締まってくれない政府に常日頃から苛立ちを覚えていたんです。そのデモ隊と軍がぶつかり、今回多くの死傷者を出してしまいました。 しかしそうは言っても、それでも今までは比較的襲撃事件は抑えられていたほうでした。 じつはムバラク政権時代、過激な活動を行うイスラム過激派は徹底的に弾圧されていたからなんです。 ところがアラブの春以降、ムバラク政権が崩壊してしまうと今までのイスラム過激派の活動を押さえつける力がなくなってしまいました。次第にイスラム原理主義勢力は大きな力を持つようになり、一部の過激派がここぞとばかりにコプト教会を襲撃するようになってしまったのです。 独裁者ムバラクがいない今、以前のようにこれらのイスラム過激派を簡単に押さえつけることは出来ません。 アラブの春によってもたらされた民主主義ですが、それによってこういった事態が引き起こされているというのはとても皮肉なことだと思います…。 |
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